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「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」 ~宮本武蔵、吉川英治著から~ Vol 3

 私の幼少時代の体験からも説明できる通り、誰もが、一度や、二度、神仏にすがり、お願いした経験はあると思います。
人は、八方ふさがりになると、誰かに頼りたくなります。

後になって、この幼少期の他力本願的な気持ちになる時、私は、この宮本武蔵の言葉を思い出すようにしました。

吉川英治の小説の中で、武蔵は、吉岡一門との決闘の直前、八大神社の前を通りかかり、この勝負に勝てるようにと、本坪鈴(ガラガラ鈴)に手をかけて、願おうとしますが、気を取り直し、「我、神仏を尊びて、神仏を頼らず」と祈願します。

気持ちの切り替は、「大いなるもの(神)の存在は信じ、感謝するとも、その存在に頼るのではなく、いま、自らができることを精いっぱいやること」への誓いです。

正に「自力をもって、他力を呼び起こす」という例えです。

その反面、人は弱いもので、誰かに頼ろうとします。
その誰かとは、人知を超えた力のありそうな人、その最たるものが、神であり、仏かも知れません。しかし、神仏は、あまりにつかみどころがなく、対象としての認識が、一般的にはできません。
そこで、人は、神仏同様に力のありそうな人、身近にいて、あたかも自分は、霊的な力があると風潮している輩(やから)を、救世主、又は、メンターだと思い込み、それに妄信する傾向があります。

すべてが、妄信とは言えませんが、「霊的な力」があると、自らでアピールしている人は、あまりよろしくない部類というのは、私の経験です。

古今東西、人は、分かりやすい信仰に惹かれやすい傾向があります。
このお経さえ唱えていれば、救われる。この御札やお守りを身に着けていれば、災いが来ない。この掟(おきて)を守れば、天国に行けるとか・・・

大変分かりやすく、誰もができそうなことですが、他力信仰の最たるもの。

世の中にある特定の宗教は、いったい、だれが作ったのでしょうか。
神様でしょうか? 仏さまでしょうか?
もちろん、先人という、私たち人間が作りました。

でも突き詰めれば、宗教の目的とは、いったい何でしょう。
何であるべきか、と言った方が、正しいかも知れません

宗教の目的は、私たちが幸福(しやわせ)になることです。
それも、生きている今、幸福になることです。

特定の宗教を批判する意図ではありませんが、幸福を感じているなら、特定の宗教団体に所属する必要はないかもしれません。
幸福感は、人から与えられるものではなく、自らの心の中から湧き上がってくるものだからです。

ですから、日々の生活の中から、その人がしっくりくる信念により、幸福感を導き出せることが最も望ましいと思います。

一般的に、日本人は、欧米人に比べて、宗教心が薄くて、特定の宗教の話をすると煙たがられますが、実際に薄いのではなく、神仏への信仰心を表現することが苦手な人種です。

神仏を信じていないのであれば、何故、元旦に、初詣にいき、お盆には、死者の霊を弔い、お彼岸には、お墓参りに行くのでしょうか。
欧米人に比べても、決して、信仰心が薄いとは言えません。

世の中を見れば、前述の通り、神仏が具現化したように見える救世主や団体が、問題を起こしては、TV、雑誌に取り沙汰されているので、この手の話は、どうしても敬遠されがちになります。

履歴に戻りますが、中学生活から、「神仏への願かけ」から脱した私は、高校を卒業すると、アメリカに留学するという計画を描きます。
この時、一生懸命に受験勉強をして、良い大学に入るという一般路線は、自分にはそれほど大事で、本当にしたいことではなかったことは、確かでした。

当時の日本という学歴を重んじる社会で生きるには、極めてリスクのある選択でしたが、アメリカンドリームを夢見て、1979年3月15日、十数名の友人たちに、見送られて、成田空港を飛び立ちました。
そう、私が最も嫌っていたこと、「あなたの宗教は何ですか?」と聞かれる国、ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカ(米国)への旅立ちです。


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