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近所のスーパーの店内BGMが少し苦手だ

近所のスーパーの店内BGMが少し苦手だ。

別に変な音楽が流れているとかではない。いわゆるジャスコ的なインストアレンジでもなく、普通に有線的なヤツで流行のポップスが流れている。それがちょっと苦手だ。

苦手な曲が流れてくれば当然あんまり聴きたくないなあと思うし、逆に好きな音楽が流れてくれば耳を傾けてしまう。知らない曲が流れてくればShazamで調べたりもするし、とにかく聴いてしまう。大した興味がない人であればスルーしてしまう音楽に、つい耳を傾けて、調べて、分析してと脳が働いてしまう。

なので、とても疲れてしまう。これはもう音楽を生業にしてしまったがゆえの呪いとも言うべきものだろう。

だからといって店に文句を言うわけでもないし、店内BGMが無いとなんとなく味気ないしなあという気持ちもある。

誰が悪いわけでもなく、勝手に一人で悶々としているだけの話である。

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以前、故障で電車が深夜まで停車してしまった駅のホームで、その場にいたミュージシャンが咄嗟にストリートライブをおこない乗客たちを和ませた、という話題を目にしたことがある。音楽が人を幸せにした良い話という風であったが、静かに寝ていたいのにうるさいと感じていた人も中には居たのではないのだろうか。

僕自身も路上ライブを全国各地でやっていたが、当然どこでも誰にでも歓迎されるわけではなく、邪険な扱いを受けたことも幾度かあった。それはそうだろう、音楽なんて聴かない人からしたら生活に不要なものだし、好きじゃない音楽であればそれは騒音公害だ。それを「なんで俺の音楽を楽しめないんだ心の貧しい奴め」なんて言い出そうものなら、傲慢が過ぎるというものだ。

余談だが、人生で一人だけ、カレーが嫌いで食べられないという人と出会ったことがある。匂いがダメらしく、子どもの時からずっと苦手で給食なんかで出ても残していたそうだ。子どもなら誰もが喜びそうなカレーライスでさえ、広い世の中には嫌いな人がいるのだ。音楽なんて何をか言わんやである。

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音楽は、聴きたくない人にも聴かせてしまうという一種の暴力性を常に孕んでいると思う。それがマンガなら読まなきゃいいしテレビなら消せばいいが、音楽はあらゆる場所、あらゆるメディアで流れている。その点において、他の表現よりも強制力が強いジャンルのように思える。

僕はそういう音楽の持つ暴力性というものに自覚的でありたいと思う。

ミュージシャンなんぞを目指すような人間は音楽が馬鹿みたいに好きで音楽に常に救われてきた人間だ。僕もご多分に漏れずそういう人間だ。自分が作る音楽を好きになって欲しいし、あわよくば人を救えなどしたら幸せだろう。誰かを傷つけるために音楽を作ったことなど一度もない。だが、自分の作る音楽を聴いて不愉快に思う人もきっといるだろう。

暴力性に怯えて日和った表現になってはいけないと思う。人の心を深く傷つける攻撃性は人の心に深く届く表現力と表裏一体だとも思う。だからといって、表現のためなら人を傷つけてもよいという人間には、僕はなりたくない。

人の心の交流・交歓となるような音楽を作りたいと常々思っている。だからこそ、音楽で嫌な気持ちになる人の心にもできるだけ敏感でいたいと思う。

それができているかは自信はないけれど、忘れないようにしたい。

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というようなことを話すときの冗談で、

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