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【連載小説】湖面にたゆたう(島田荘司「丘の上」の続編)⑬

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 その日から、沢島家はまるでまた引っ越しをするかのような騒ぎだった。幸か不幸か成城を出るときに、友子たちはマイホームと一緒に大量の物を捨ててきた。大した価値などないのに、なんとなく残しておいた友子の独身時代の服や装飾品、玄関に飾っていた陶器の小物など。中には光一の昔の服や遊び道具などもあった。手狭な新居で荷ほどきをしながら、友子は破棄してきてよかったとしみじみ思ったものだ。実際このアパートには収まりきらないほどの量だったから。それでも新しい生活が始まれば、また垢のように物が増えていく。その中で用途の曖昧な物たちを、里美少年の来訪に向けて光一と一緒にこつこつと捨てた。前回の引っ越しとは比べ物にならないほど容易ではあった。そして掃除に明け暮れるうちに、光一と里美少年の間で話が具体的に進み、いつの間にか梅雨が明けていた。

 僕ね、子どもの頃に、誘拐されたことがあるんですよ。

 テレビ画面の向こうでそう語る里美少年は、あれから何度友子の夢に出てきただろう。「実は最近、偶然その子に連絡がつきまして」と、彼自身が続きを話すこともあれば、「あの晩、小田急線の線路に突き落とされそうになったのは、夢なんかじゃなかったんです」と、カメラ目線で里美少年が語り終えるやいなや友子たち夫婦が寝ている部屋のドアが勢いよく開き、見知らぬ男たちが乱入してくることもあった。その晩も同じようにうなされていると、里美少年がこちらを指さしながら大声で言った。

「そのおばさんが、今日この会場に来ています」

 里美少年が言うのと同時に、スタジオの観覧者席に座っている友子にスポットライトが集中する。弾かれたように周辺の観客が立ち上がる中で、出演者の輪の中心から「続きは本人からどうぞ」という声が飛んでくる。友子も小さく悲鳴を上げながら跳ね起きる。背中に張り付いた寝間着の冷たさで我に返る頃、友子はようやくここがアパートの一室であることを思い出すのだ。

 里美少年が沢島家に訪れた日の朝も、そんなふうに目覚めていた。悪夢の残像で脳に薄い膜が張ったように、全てが朧気だ。あるいは脳の一部が壊死してでもいるかのような感触。

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