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初めての海外旅行でインドに行ったよ

弾丸旅行だったが、インドにいってきた。

日本を発つ、ほんの3週間くらい前に、ツアーを企画した知り合いに誘われた。

私は旅行する暇があったら本が読みたい性分であり、これまで一度も海外旅行をしたことがない。なので、ビザどころかパスポートすら持っていなかった。一週間も休める有給はないし、金もない、知り合いもいない。初めての海外なら韓国あたりが無難だろ……というよくわからない思い込みがあって、一度断った。

とはいえなんやかんや、あーでもないこーでもないと言っているうちに、休暇とパスポートとビザを取得した私は3週間後、インドの首都ニューデリーに降り立ったのだった。


結論からいって、インドは居心地が良くて、すごく好きになってしまった。

たかだか1回、しかも海外初心者がカルチャーショックを受けただけだろう。その可能性は否定できない。
でも、それでもいい。そんなことはどうでもいい。

そうだ、理屈でないインドへの愛をいまここに宣言したいと思う。

特に好ましいところとして宣言したいのが「運転の仕方」だ。
インドに行ったことがある人は知っていると思うが、道路はまさにカオスだ。車間距離という概念がない。バイクやリクシャー(インドの3輪タクシー)どころか、人と動物すら平気で道路のど真ん中をいけしゃあしゃと歩いている。

でもなぜか絶対にぶつからない。現地インド人は「たまには事故があるけどそんなにない」と言っていたし、わたし自身旅行中は色々な車に乗ったが、事故は見かけなかった。

そして特筆すべきもう一点はクラクション鳴らしまくりの件だ。とにかく鳴らす。近くに車……というか動く障害物があれば所構わず鳴らしまくる。

日本ではルール違反の車に鳴らすことがほとんどで、鳴らすほうも鳴らされた方も結構な不快感だ。だが、インドの道路にルールはない。いや、赤信号止まる青信号走るくらいのルールはあるが、そのほかはないに等しい。

一体何にそんなに感情高ぶらせてるんだいきみたちは。

と戦々恐々としていたが違った。あれはどうやら「思いやり」のようだった。

単純に邪魔だから退けと言っているのではない。今からそこに行くよという意思表示なのだ。相手側もギリギリまで譲らないけれど、本当に譲れるなら譲る。意思表示した側は相手が譲れないなら潔く諦める。このやり取りをクラクションに込めているのだ。

「インドは広いから、どこかに必ず共存するためのスペースがある」

旅の間ずっと一緒にいたインド人ガイドが言っていた言葉だ。どれだけ混雑した道路でも事故が起きない交通の話から、宗教と民族の話になった。

人口13億人以上、面積は日本の9倍のインドは多民族国家で、世界中の宗教が混在している。教義を守る信念とその影響は日本人のわたしには計り知れないが、強いことは間違いない。そんな彼らはぶつかり合いながらも、同じ国で共存している。事実、ガイドはヒンドゥー教で、ドライバーはスィク教を信仰していた。数十年前には大きな抗争があった宗教同士だ。でも一緒に働いている。

ガイド自身も理屈では説明できないらしかったが、理由があるなら「広いから」らしい。たぶんそれは土地のことだけでなく、もっと大きな「広さ」を意味しているように思う。

受け入れがたくても、完全に排除するではなく、無理に受け入れるでもなく、自分のテリトリーに存在することを許している。この懐というか、情の深さが、「広さ」につながっている気がする。「あんたもここにいていいよ」と言われているようで安心する。わたしがクラクションに感じた「思いやり」もきっとここからくるものだ。

都会のニューデリーや大きい道路ではあまり解らなかったけれど、地方の田舎道を走るときはみんなとても優しい運転をしていた。車を降りて話せば、シャイだが笑顔が可愛い、ひとりの人間を感じて嬉しくなった。


わたしが日本人である以上、必ずやってくる帰国の日。飛行機に乗るために、空港についた時、突然涙が溢れた。理屈ではなかった。最初は感情が高ぶったわけでもないのに涙がずっと出てくるのが恥ずかしくて、なんとか止めようとしていたのだけど、その内この地から離れたくないという気持ちがどんどん湧いて出てきて涙は号泣に変わった。単独参加だった私を、仲良くなったツアー客のおねえさんたちがずっと抱きしめていてくれた。

また必ずインドを訪れる。

そのときにはヒンディー語で彼らと話すのだ。

(その前に英語か)


編集:アカ ヨシロウ


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