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夕凪の街 桜の国(2005年06月18日)


2005年06月18日 記

 こうの史代の漫画『夕凪の街 桜の国』の感想は、自分のサイトだけでは飽き足らず、ミクシィの「おすすめレビュー」にも載せている。一人でも多くの人にこの本を読んでもらいたいと思うからだ。

 一方で、すでに読んだ方々の感想なんかにもつい目が行ってしまう。ミクシィだけでじつに234件ものレビューがついているからやはり名作といえるのだろう。ただ、いろんなコメントを読んでいると、「広島を訪れてから読むべき」「この本を読んだからといって、広島の全てを知ったと思ってはいけない」といった意見もよく目にする。たしかにそう言われてしまえば、その通りと答えるしかない。

 だけれど、そうした“正論”に対して、僕はどうも戸惑ってしまう。たしかに広島を訪れることで、より深くこの作品を理解することにつながるのかもしれない。でも、誤解を恐れずに言えば、僕はこの作品のテーマが「広島」にあるとは思っていない。それよりも戦後から現代までのある種の「断絶感」がテーマだと思っている。

 僕自身の断絶感についてはレビューで書いたので、詳しくはここでは触れない。別の例を引っ張り出してみると、例えば村上龍の小説の中で(たしか『共生虫』だったと思う)、引きこもりの青年が戦争中の写真だか映像を見るシーンがある。その光景を、青年は「別の世界の出来事」としか捉えることができない。日本の風景だというのが理解できないのだ。たかが60年前の出来事のはずなのに、戦争の存在はずいぶんと遠い。

 でもほんとうは、現在まで地続きでずっと繋がっている。戦争という愚考は連綿と続いている。

 でも僕らはそんなことをまったく意識しないまま日々を過ごしている。だからいつまでたっても戦争を「自分の問題」として引き寄せることができない。自分の問題として戦争を捉えるためには、その「断絶感」を埋めるしかない。そしてその断絶感を埋めるのに必要不可欠なのが家族の存在なのだ。血の流れなのである。『夕凪の街 桜の国』は広島の物語であると同時に、家族の半世紀を描いた物語でもある。想像にしか過ぎないけれど、こうの自身もその断絶感を埋めるためにこの作品を書いたのではないだろうか。

 僕がこの作品を評価するのは、「自身の問題として引き寄せる」ことが戦争や広島を理解する第一歩だと教えられたような気がしたからだ(それにしても、広島のことを語るのはどうしてこんなにも敷居が高いのだろう?)。先の「広島を訪れてから読むべき」といった正論を振りかざされてしまうと、僕などは逆に、原爆から目を反らせたくなってしまう。「語る資格などない」と萎縮してしまう。でもこうのの作品はそんな敷居をぐっと低くしてくれたような気がする。誰にでも、どこに暮らしている人でも「戦争の記憶はある」――そんなことを語りかけてくれているように思う。

 こうのの作品が広島の悲劇だけを訴えるものであったなら、僕はおそらくこんなにも薦めたりはしなかっただろう。僕には「広島」を語る資格など未だにないからだ。でも「戦争」を語る資格なら僕にもある。戦争の記憶ならば僕の家族にも受け継がれているし、それは日本のどの家族にも多かれ少なかれ受け継がれているはずだ。何度も言うが、まずは、自分の問題として戦争を引き寄せる事が大事なんだ。その気づきを与えてくれるのが『夕凪の街 桜の国』なのである。広島を訪れるのはそのあとでもかまわない。

2024年02月09日 追記

 その後、こうのさんは、同じく戦時中の広島を舞台にした『この世界の片隅に』を発表。こちらはまさに「家族」の物語を、ときにユーモアを交えながら描いていて、のちに起こる原爆の悲劇との対比が見事だった。従来とは異なるアプローチで「原爆」を「物語化」したこうのさんの功績は、ほんとうに大きいと思う。

〈戦争という愚考は連綿と続いている〉――昨今の世界情勢を見るにつけ、自分で書いたこの一文に改めて衝撃を受けている。二十年経って、世界はますます悪い方向へ進んでいるように思えるからだ。人間はほんとうに愚かだ。

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