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221 とにかく明るいけど重たい話

救急車は呼ばないでね

 父(95歳、6月生まれ)、母(90歳、5月生まれ)。二人の誕生日が近づいている。我が家は、私が子どもの頃には誕生日を祝ったものの、中学生からは特別なことはしなくなった。中学の頃、私としてはもっとも多くの友人がいた時代なので、たぶん、家でなにかするなんて「カッコ悪い」と言い放ち、友人たちと適当に過ごしたに違いない。といったって、この友情は高校受験によって消えてしまうのだが。
 そのせいか、私も父母の誕生日になにかをした記憶はない。酷い息子だ。
 その母は、いま「老衰」に向かっている。自分でそう言うのだ「私は老衰だから」と。
「朝、なに食べたの?」と聞くと母は「別に。いつもの」と返事をする。父は「ぜんぜん食べないんだよ。紅茶を飲んでイチゴをいくつか食べただけ」。「昼は?」「ヨーグルトとカステラ」。
 おとぎ話に出て来るお姫様のような食事だ。
 それでも父母は明るい。笑っている。「だって、おいしくないし、食べたくないんだもの」と母は笑う。「あちこち痛いし」。肩と腰が痛いとか。定期的にマッサージをしてくれる人がやってくるのだが、その時はだいぶいいらしい。それでも足が不自由なので風呂もシャワーだけで湯船に入らない。
「介護の人に頼めば、入れてくれるよ」とこちらから言っても、明るく「いらない」と拒否する。とにかく明るい。
 食欲のない人、食事の取れない人向けの、栄養素のつまった療養食も用意してあるのだが、手をつけていない。一時、本当に自分でも危機的だと思ったらしい時には飲んでいたものの、それを脱したと自分で判断してやめてしまった。
 そんな明るい父母だが、母が「救急車は呼ばないでね。病院に連れて行かないでね」と言う。まさか、即身成仏のように死のうとしているのかと思うのだが、父や子としては、たとえば母が意識不明になる、立てなくなる、といったときに間違いなく大慌てになり救急車を呼んでしまうだろう。
 母が倒れたときに救急車を呼ばない家族なんて……。
「訪問のお医者さんだけ呼べばいいから」と言う。当初はそれほど気に入っていなかった医師の訪問も1年ほど続くと、それなりに気心は知れてくるのかもしれない。
 それにしても、私としては、救急車を呼ばない自信はない。つい、呼んでしまいそうだ。

骨壺は小さいのでいいから

 また、ある日は「骨壺は小さいのにしてね」と言う。骨壺のサイズなど考えたこともなかった。ネットで調べると確かにいろいろなサイズが用意されている。最近は墓ではなく手元に骨壺を置く人も増えているらしく、手頃な小さなものもある。骨壺のサイズは「寸」で表示されていて、まったく実感は湧かない。少なくともテレビや映画で見る限りは、両手で抱えるぐらいのサイズが多いのではないかと思う。それを「小さいの」と言われてもね。
 手の平サイズでもいいのか?
 だいたい、その時、母は亡くなっているので、どんな壺に入ろうと我慢するしかないだろう。それとも「もっと小さいのがよかった」と枕元に立って文句を言うだろうか。あるいは「いくらなんでも狭すぎる」と。
 日本家屋で暗がりの多い部屋でひとり寝ていたら、幽霊のひとりやふたりは出てきてもいいけれど、マンションのLDKみたいなところでは幽霊も出にくいのではないだろうか。
 そういえば幽霊は、出て欲しい人は出てこず、出て欲しくない人しか出て来ないような仕組みになっているけれど。
 ここまで書いたら、やっぱり軽くため息が出てしまう。かつて「ご長寿早押しクイズ」に大笑いしていた頃が懐かしい。そして当人たちが「長寿」のゾーンに踏み込んでいることが不思議だ。まさか高齢化が社会問題となって、無邪気に長寿を祝っていた頃とはずいぶん変わってしまうとは……。当人たちにもきっと響いているに違いない。
 ただ生きてきただけで社会問題の当事者になるなんてね。冗談のような現実だから、せめて明るく笑うしかないかもしれない。

外堀をかためる。


 

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