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176 不寛容と生きる

寛容さの経済効果

 ドラマ「不適切にもほどがある!」では、一度不倫した者は復帰もできない、という不寛容な現実をおもしろおかしくドラマにしていた。不寛容を生んでいる人たちは、道徳的に正しい生活をすることを誓ったいわば清廉潔白な人たちというわけではない。ただうるさいだけの人たちである。もちろん、そういう人たちを排除せよと言うわけではない。なぜなら、その人たちも不倫するかもしれないし、裏金を懐に入れてしまうかもしれない。あるいは、ご立派でいいことをしているかもしれないので、それはそれでいい。
 しかし、不寛容に生きないと、世の中にいい影響を与えられないと考えているとしたら、それはたぶん間違いだろう。多くの宗教の大きな役目は「許すこと」である。許し方は宗教によって違う。ある宗教は他の宗教の許し方を許せない、といった込み入った状況も起こってしまうけれど。
 寛容になることで大きな経済効果を生むと主張する記事を発見した。だいぶ古いけれど。門倉貴史「病的な排除心理は経済の衰退を招く 日本はなぜ極端な"不寛容社会"になったか」である。
 この記事の中に「日本の不倫の市場規模は年間約3兆5489億円に上る」とあって、不寛容な人たちはもうそこで目くじらを立てるに違いない。
 最近話題になったある議員の不倫行動を見ても明らかなように、不倫はおカネがかかるのである。さらに前にはあるお笑い芸人が不倫にあまりもおカネをかけなさすぎたことが話題になったりもした。
 この記事をそのままポジティブに変換すると、「寛容さの経済効果」は私たちが漠然と思っている以上に大きいことになる。
 もちろん「経済効果なんて関係ないだろう!」と怒る人もいる。それでも、寛容である方が、不寛容よりも世の中はだいぶよくなる可能性がある。それは多くの人たちが薄々は感じていることで、ドラマのように徹底糾弾せよ、という人はむしろ少ないはずだ。

少数の人の声が通りやすいとしたら

 なんでもかんでも多数決では社会はうまくいかない。これはいま話題になっているアメリカの大統領選でもそうだろう。それでも多数にならなければ大統領にはなれないのである。数は強みである。ロシアでも大統領選があり、そこでは勝利はすでに確実なように仕組みから変えられているのだが、ただの勝利ではダメで、圧倒的な勝利になるようにカネと労力が使われている。国民の大多数が投票し、そして圧勝することが正義というわけだ。
 日本の選挙はそもそも投票率が少なく、その中でさらに接戦が起こりやすく、絶対確実な選挙区は、たいがい大物政治家の支配下にある。一握りの大物政治家とその家族は、ずっとその地区で勝ち続ける。それは「安定」で「平和」に見えるけれど、ロシアの大統領選と同じようなことが起きていると勘ぐられてもしょうがないだろう。
 では、少数派の意見を大きく採り上げればいいのだろうか?
 確かにSNSの世界では、あえて少数派の意見をぶつけておもしろくする人たちも多い。
 不寛容の原因も、実は少数のうるさい人たちにあるのかもしれないし、それ以外の人たちは無関心、あるいはどっちでもいい、と考えている。積極的な寛容さではなく、消極的寛容さは、少数の不寛容に負けるのである。
 また消極的寛容さは、絶対確実な選挙区を放置することにもつながる。
 いずれにせよ、私たちは強い主張をするとき、客観的ではいられない。できるだけ客観的でいたいと思っても、自分たちの主張にふさわしい客観さしか受け入れられないだろう。
 この点で、もし「積極的な寛容さ」を主張したくなったとしたら、それはそれで客観性をかなり犠牲にすることになりそうだ。
 不寛容な人たちにもそれなりの寛容さがあるように、積極寛容派の人たちにもどこかしら不寛容な部分は生じてしまうに違いなく、お互いにそこを突っつき合うようなことになったら、なんだか不毛だ。
 こうなると消極的寛容派でいることが一番いいような気になってしまう。つまり「我関せず」だ。日和見とも言う。
 他人の寛容さに期待せず、自分は不寛容に陥らないようにする。それぐらいしか対処できそうにない。

おねだり


 

 



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