『桜桃』-太宰治

私は大学生を経験したことがない

アーティストが作品のインスピレーションを求め殺人をする。
そんな物語のエピソードを一度は見たことがあると思います。過去に小説を書いた時、そんなアーティストの気持ちがよくわかりました。少なくとも私の創作活動は、自分の経験に由来する部分が大半でした。
自分の経験を元に書く文章と、そうでない文章は、少なくとも私にとって、クオリティに天と地ほど差がありました。
読書が嫌いだった私は、昔のいわゆる文豪たちは、如何にしてそんなにも多くの作品を描けたのか、甚だ疑問で、常人を遥かに凌駕するほどの経験を持つのか、未知を思い描く想像力が人智を超えるほど秀でているのか、と、考えたものです。

『桜桃』の主人公は、『人間失格』の主人公である葉蔵と似ています。つまりは、太宰治と似ているでしょう。
具体的には、他人を糾弾すること、他人に糾弾されることを恐れています。
その根底にあるのは、漠然とした正義や、人間としての正しさの答えを持たないことにあるかもしれません。
「子供より親が大事、と思いたい。」
思いたい。という言葉からは様々な背景が感じられそうですが、私はそれについて特に、そう思ってこそいるが、それを自分の確固たる意見としてよいのか不安だというニュアンスを感じました。

主人公にとって、妻や、他の人間の意見というのは、確信が強く、凄まじい自己肯定感に支えられています。主人公にはそれがありません。
『人間失格』の葉蔵については、自殺をする決意があったがゆえに、自分への言い訳を持たなかった。というような感想を抱きましたが、『桜桃』には、言い訳が沢山登場します。これは、上手に生きていけないことへの言い訳です。
主人公は自分について、非がない人間だと思っているわけではないし、妻についても非がある人間だと思っている訳ではなさそうです。ただ、ひたすらに万物の判断基準を見いだせず、あらゆることが良いとも悪いとも、意見を持つ自信さえないのです。
私はこれが、彼を苦悩させる原因だと考えました。

それは、太宰治自身が部分的に持っていた自分への、人間への、そして社会への疑念であって、それを上手に切り出した作品だと感じました。

太宰治は文学者

『桜桃』の主人公は作中、作家として太宰治から批評を受けました。ニュアンスとしては、「おめーの作品コメディなだけで浅いわ。」という感じでしょう。
これは私の自論ですが、芸術とは表現であると考えるので、文学が芸術のひとつであるとするならば、太宰治の批評は芯を食っているでしょう。文学作品というのは、単に言葉で表現をしているわけではありません。それは言葉ではなく、物語を介して表現をしているのです。ある歌が、歌詞を読み上げるだけではただの言葉であるが、その言葉を歌えば芸術へ昇華することとよく似ていると思います。
そういう意味では、現代のテレビアニメやドラマというのは、少なくとも文学作品、いや、太宰治の作品と比較した時、芸術とは呼べないかもしれません。

少なくとも太宰治は、「なんかおもろい話思い付いたから本にしたろ!」とかいう訳ではなく、彼なりの文学を探究した副産物として作品を生み出していたことの証明が、ここにされているように感じて、嬉しく思います。

予期された失望

『桜桃』の主人公が妻と親しくなり、結婚に至ったのは、『人間失格』の葉蔵と似ていることから考察するに、他人へ糾弾や追求をしない人間だと感じたからでしょう。
ただ、作中で主人公が恐れているように、それをしない人間が、必ずしもその行為に否定的だとは限りません。妻はいつか、それを主人公へ行う可能性が十分にあるはずです。そしてそれは、妻、子供、仕事、面目といった、今まで自分が積み上げてしまったものを人質に取り、レスポンスを求めます。これほど恐ろしい体験は、彼にとって他に存在しないでしょう。
そしてその時主人公は、そんな恐ろしい体験を突き付けてきた妻か、そんな妻と関係を築き上げた自分か、もしくはその全てに失望するかもしれません。

この小説のインスピレーションの源は、太宰治のそんな予期であると、そんな風に感じます。


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