『ロマネスク』-太宰治

あまりにも読みすぎた

分かりそうで、よく分からん。
というのが、一読した時の素直な感想だったように思います。仙術太郎と、喧嘩次郎兵衛と、嘘の三郎。彼らの特徴的な能力や、父親との関係、最終場面で巡り会ったこと。対比部分やそれらの意味を考えてみても、よく分からん。

そうして読んでいる間に、一読した時に興味を引いた描写や場面について、感想を書こうとしても、新しい気付きに邪魔されて、上手く思い出せなくなっているような気がします。
思考の軌跡を残すための読書感想文を書くならば、あまり時間をかけすぎることも、なんだか微妙なことかもしれません。

挫折?失敗?いや、、、責任?

『ロマネスク』の3人の主人公たちの共通点をズバリ一言で言い表す言葉を、私は持っていないのか、もしくは頭の引き出しの中から探し当てることができません。
彼らは自らを偽ることを目的とし、その力たちを手段として用いました。太郎の本当の外見は立派な男ではないし、次郎兵衛も他人からの評価に囚われているあたりが、本当の勇ましい男ではないように感じられるし、三郎も嘘によって自分の真意を隠し、場に応じて他人からの評価を操りました。
その結果、力の暴走により大きな不利益を被りました。それは、彼らの人生を大きく変えたでしょう。

人って、ソンナモンジャネー(変顔)

『ロマネスク』の結末は、主人公3人がとある居酒屋で偶然居合わせ、互いの半生に理解を示し合う。そして、三郎が、私たちは芸術家だと宣言する、というもの。
だが描写としては、その宣言は、三郎の燃えたぎる嘘の火炎の輝きだと言いたげな言葉で綴られている。これはおそらく、単に彼らが芸術家ではない、という訳ではなくて、特に三郎は嘘のない人間を目指していたのに、自分たちの過去を無理やり肯定するためだけに、芸術家という言葉一つ借りてきただけであるから、これが嘘だという意味でしょう。
彼らにはそれぞれ、自分が思い描く理想の在り方を持っていた。だがそれは実現しなかった。これは本来反省しまた取り組むべき事柄であるのに、それを放棄して、自分の真意を見て見ぬふりををして、どこかに転がっていた信念を取って付けたように生きる。そんな主人公たちを私は想像しました。

ニーチェ

私はそんな『ロマネスク』の主人公たちの生き方から、ニーチェが説いたニヒリズムや超人を連想しました。
ニヒリズムとは、日本語では虚無主義と言われたりします。この世の全ての事は無価値であり、そんな外的要因について一喜一憂することが愚かだとする考え(と私は捉えています)。超人とは、ニヒリズムを採用しながらも、この世が無価値であるという結論で思考停止はせず、周りの無価値な世界に対して、主観から来る内的要因に目を向け、向上心を携え、外的要因に影響されず、ただしそれを理解し順応さえして行動をし続ける人(と私は捉えています)。

『ロマネスク』の主人公たちは、ニヒリズム的には無価値であるはずのこの世の全ての一部から、つまり外的なものからの評価に囚われているように感じます。そして物語の結末までも、その展望は外的要因に大きく影響されてしまっていると言えるでしょう。
自分の過去への評価にも、芸術家という存在にも価値がないと考えるなら、彼らはまたそれぞれで、自分の理想の存在になるための手段を探究し続けるような気がします。そういう意味で、彼らはそれを放棄したとも言えるわけです。

実際のところ、太宰治がこの思想に触れていたのか、もしくはこれに近しい考えを伝えようとしていたのか、持っていたのかは分かりません。
しかし、それこそ超人風に考えるならば、太宰治がどんな意図で執筆したのか、という事は無価値で、重要なのは自分がそこからどんな意図を汲み取るか、ということでしょう。

「芸術というのは、自己実現、自己表現の手段であるべきだ。」
「他者からのリアクション、外部からの評価に重きを置くような作品は芸術でないし、そんなものを作る人を芸術家とは呼ばない。」

「美学とかなんとか言うけど、実は大抵の芸術家なんて、こんな感じで自分と向き合うことを諦めてるだけだったりするんだよ。」
「芸術家だけじゃなく、一般人でさえ、ほとんどの人はこうやって外的要因に踊らされて生きているんだよ。」

「こんな風に自分と向き合わずに、重要なことから目を背けて生きるやつは必ずいつか同じ失敗を繰り返す。」
「自分と向き合うことの重要さに気付いたにも関わらず、それから逃げる人、そんな人たちは、実は誰よりもその重要性や愚かさを知っている。芸術家というのは、それを教えてくれる教師でもある。」

どれでも、お気に入りの意図を持ち帰って貰って構いませんよ。

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