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聖地在住|穂村 弘(歌人)

各界でご活躍されている方々に、“忘れがたい街”の思い出を綴っていただく連載あの街、この街。第32回は、現代短歌の中心的存在である歌人・穂村弘さんです。東京、吉祥寺に住むのが夢だったと語る穂村さん。なぜそこに住みたいと思ったのか、そして吉祥寺の街で見たものとは。

 吉祥寺に住むのが夢だった。憧れの漫画家である大島弓子、うめかずお、諸星大二郎といった人々の地元であり、作品の舞台にもなっているからだ。一昨年、その吉祥寺にとうとう転居してきた。巷で云うところの聖地巡礼ならぬ聖地在住が実現して嬉しい。現実の吉祥寺もいい街だが、聖地としてのここは私にとっては夢の世界なのだ。

 大島弓子の代表作『綿の国星くにほし』の中に、こんなフレーズが出てくる。

 「昼荻」「痴気情事」「夜鷹」とつづく、この沿線の延長線上に……

 半世紀近く前に初めて本作を読んだ時、「?」となった。「沿線」とは東京の中央線のことで、「昼荻」は西荻、「痴気情事」は吉祥寺、「夜鷹」は三鷹にそれぞれ対応するパロディだ。でも、名古屋に住む高校生の私には、そんなことはわからない。ただ、奇妙な駅が並ぶ幻の「沿線」に幻惑され、憧れを募らせるばかりだった。

 今ならわかる。たぶん作者の発想の起点は吉祥寺を「痴気情事」と言い換えたことだろう。「痴気情事」は、乱痴気騒ぎの痴気に『昼下がりの情事』の情事。少女漫画らしい可愛い絵柄の中に、性的なネーミングの駅が出現したことになる。

 そのセクシャルなオーラに引っ張られて、三鷹が「夜鷹」に変身する。「夜鷹」とは江戸時代の娼婦のことだ。そして、最後に西荻に魔法がかけられる。「夜鷹」の夜に対して「昼荻」になったのだろう。「痴気情事」を挟んでの昼と夜。なんとも云えない祝祭感に溢れている。

 吉祥寺の町並みは今も、私の目にはこの魔法がかかって見える。井の頭公園を歩くたびに、ここで大島さんは仔猫を何匹も保護したんだよなあ、と思う。ダイヤ街のくぐつ草に入ると、この喫茶店に大島さんも来たんだよなあ、だって、「くぐつ草のソフトタイプ」って漫画に出てくるもん、と思う。

 そんなふうに夢心地でふわふわ歩いていると、目の前にもっとふわふわと歩いているしましまボーダー服の人を発見。お散歩中の楳図かずおさんだ。ひゃーっ。『猫目小僧』『おろち』『漂流教室』『洗礼』『わたしは真悟』……。どれも傑作を超えた超傑作ばかり。素晴らしい。素晴らしいよ。でも、声をかけたりはしない。ただ、その背後にそっとくっついて、しばらくいっしょに歩かせてもらう。ああ、僕は今、楳図かずおと同じ風景を見ている。同じ世界に生きているんだ。

文=穂村 弘

📚穂村 弘さんのご著書

蛸足ノート
中央公論新社

穂村 弘(ほむら・ひろし)
歌人。1962(昭和37)年北海道札幌市生まれ。1990年に歌集『シンジケート』でデビュー。『短歌の友人』で伊藤整文学賞、『鳥肌が』で講談社エッセイ賞、『水中翼船炎上中』で若山牧水賞を受賞。歌集、エッセイ集以外にも、詩集、対談集、評論集、絵本、翻訳など著書多数。新刊は『蛸足ノート』(中央公論新社)。

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