[有田焼・香蘭社]ジャポニスムブームがアメリカに広がった時代|幕末・開化期、佐賀の万博挑戦
ウィーンへの派遣団の中に、納富介次郎という男がいた。もともと絵が巧みな佐賀藩士で、幕末には上海に渡った経験を持つ。
納富は万博閉会後に、フランスのセーブルなどヨーロッパ各地の焼物の地におもむいた。そこで石膏型を用いて、粘土液を流し込むなど、同じ形の器を量産する方法を習得。ろくろほど手間がかからず合理的で、帰国後は有田に技術を伝えた。
美術史家の森谷美保さんによると、納富は次のフィラデルフィア万博用の図案集を、新政府に提案したという。
それが実現して「温知図録」ができ、京都の清水焼や金沢の九谷焼など、全国の焼物の里をはじめ、金工や木工の産地へも配布されて、製作に活用された。
「ただ有田向けには図柄がないものが多いんです。おそらくデザインは彼らの技量に任せたのでしょう」
森谷さんは、やはり有田は別格だったと考えている。
納富は何度も有田を訪れ、製作上のアドバイスのかたわら、ヨーロッパのような陶磁器会社の必要性を訴えたらしい。
有田では磁石から粘土を作る者、成形する者、窯で焼く者など、分業制で、小規模な窯元も多かった。それを会社にまとめる方が、効率がいいと考えたのだろう。
そんな求めに応じたのが深川栄左衛門だった。当時、栄左衛門は碍子の大量生産に成功していた。
佐賀出身の電信の技術者が、碍子の製作を依頼したのだ。丸太の電柱を立てて、電線を張っていく際に、木部に触れるとショートしてしまう。そのために絶縁体の碍子が必要だった。
深川栄左衛門は、来たるフィラデルフィア万博に備えて、仲間たちに声をかけ、合本組織として香蘭社を設立。これは、もともと5年間に限定した会社だったが、時期を待たずに4年で解散。
深川栄左衛門が香蘭社の名前を引き継ぎ、今に続く有田焼の名門が改めてスタートしたのだ。
香蘭社はフィラデルフィア万博で、さっそく高い評価を得た。品物は「温知図録」の効果もあって、飛ぶように売れた。そうしてヨーロッパのジャポニスムのブームはアメリカにも広がった。
現在、香蘭社本店は内山地区でも、ひときわ目を引く洋館だ。趣ある外扉を開けると、1階のショップが迎えてくれる。2階にはガラスケースの中に、古美術と呼べる品々が並んでいる。その完璧なフォルムや、細かく描き込まれた図柄、秀逸な彩りには息を呑む。
旅人・文=植松三十里
写真=阿部吉泰
協力=森谷美保
──この続きは本誌でお読みになれます。なぜ佐賀藩だけが幕府の呼びかけに応じてパリ万博に挑んだのか、有田焼を生んだ佐賀の歴史、当時の日本の状況を時代小説家の植松さんが紐解きます。ぜひご一読ください。
▼ひととき2024年5月号をお求めの方はこちら
出典:ひととき2024年5月号
よろしければサポートをお願いします。今後のコンテンツ作りに使わせていただきます。