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我がきぬにふしみの桃の雫せよ|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

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≪お知らせ≫
小澤 實 著『芭蕉の風景(上・下)』が、第73回読売文学賞で随筆・紀行賞を受賞しました。おめでとうございます。小澤さんはご自身の句集『瞬間』で第57回読売文学賞詩歌俳句賞を受賞して以来、二度目の受賞となりました。

我がきぬにふしみの桃のしずくせよ 芭蕉

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エロチックな印象の句

 貞享二(1685)年春、芭蕉は奈良東大寺でお水取りの行事を拝した後、京に出ている。『野ざらし紀行』の旅である。掲出句は『野ざらし紀行』所載。当紀行文中の名句の一つ。「伏見、西岸寺さいがんじ任口にんこう上人にあうて」と前書がある。任口上人は西岸寺の住職であり、当時の俳壇の大物、西山宗因、松江重頼しげよりと交流をもつ俳人でもあった。芭蕉訪問時八十歳の老僧で、翌年没している。

 芭蕉は任口上人に逢って挨拶句を贈った。句意は「わが衣に桃の花の雫をこぼし、うるおしてください」。「御僧の高徳によって、心の潤いを得たいのです」などと解釈されることが多い。伏見は豊臣秀吉が城を建てた地。江戸時代に廃城になった後、桃の木が植えられて、当時、桃の名所となっていた。名物の桃の花に託して、僧の徳の高さを讃えた、精神的な句と解釈されている。

『古事記』において、桃の実は黄泉の国の怪物を追い払った。桃の実から桃太郎は生まれている。桃の花は桃の節句に飾られる。桃という植物には生命が満ちあふれている、艶やかなものという印象がある。その花の雫である。どこかエロチックな印象さえあった。そのような印象の句を老僧に贈るというところに、今までかすかな違和感を味わってきた。句が生まれた場所を訪ねてみたい。

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 立春は過ぎたが、風の強く寒い日の午後、近鉄京都線桃山御陵前駅で下車。すぐ近くの京阪電鉄京阪本線伏見桃山駅を経て、大手筋通を西へ向かう。アーケードのある商店街だが、日曜日の午後、シャッターを下ろしている店は皆無、繁盛しているのだ。

 一本南側になる油掛通あぶらかけどおりに面して、西岸寺はあった。寒風の中、門前の立て札に書かれている寺の縁起を写し取る。山崎のある油商人が、地蔵の門前で転び、油桶を落として、油を流してしまった。商人は落胆したが、残った油を地蔵尊にかけて供養したところ、大いに栄えた。以来、地蔵尊に油をかけて祈願すると、商売繁盛がかない、商家の信仰を集めることとなった。寺として整えられたのは、天正十八(1590)年雲海上人によるとのことだが、さらに古くより庶民に愛された歴史があるのだ。

油をかけることから発想

 門を入ると、まあたらしい白木の本堂がある。たまたま寺に来ていた檀家総代の夫人に聞くと、鳥羽伏見の戦いで焼失した建物の一つを再建したもので、三月落慶の予定だという。落慶を待たずに、住職が急逝してしまったと、悲しんでいる。地蔵堂の鍵を開けてもらい、中に入る。本尊は石仏。花崗岩に地蔵が彫られている。微笑の温顔である。異様なのは、縁起どおり、そこに油がかけられていることだ。長年かけられてきた油が厚く層をなして、黒光りしている。寺のパンフレットによれば、この石仏は鎌倉後期在位の伏見天皇の念持仏であったという伝承があるとのこと。そのころ彫られたものかもしれない。長い棒の先に小さな金属製の碗がついている柄杓で、ぼくも植物油をすくい、かけてみる。

 芭蕉と同時代の俳諧師で小説家の西鶴も、この寺に任口上人を訪ねていることを『西鶴名残なごりとも』(元禄十二年・1699年刊)に記している。そこに「油掛の地蔵がお立ちになっている西岸寺」という意味の記述が見える。西鶴は、西岸寺を代表する寺宝として「油掛の地蔵」を意識している。こう書くからには、西鶴は地蔵を拝し油をかけたことだろう。そして、信仰の篤い芭蕉もかならずや同じことを行っていると想像できる。

 ぼくがかけた油は、ゆっくりと石仏の顔と衣を伝わって流れ落ちてゆく。その流れを見ながら、掲出句「我がきぬにふしみの桃の雫せよ」の発想は、この油かけから来ているのではないか、と直感した。芭蕉はまず、地蔵尊に油をかけさせてもらった礼を任口上人に申し上げた。その上で、「今度はわたしの衣に、油ならぬ上人様の桃の雫をいただきたいものです」と興じているのではないか。そう考えてみると、この句は伏見の「西岸寺」でなければ生まれえない句となる。

 地蔵堂の横の掲出句の句碑は文化二(1805)年建立の貴重なもの。隣接する墓地の歴代住職の墓の並びに、任口上人の墓を探す。入口近いところに、台に「当寺三世宝誉ほうよ上人」と刻んだ、円柱の先端の丸まった、小さな墓を見出した。宝誉上人は任口上人の別号。まさに芭蕉ゆかりの上人の墓である。芭蕉が会ったとき、任口は八十歳、当時としては、たいへんな高齢である。老僧にエロチックな愛の告白とも読める句を贈ったところに、俳味があったのではないか。冬日の当る墓にぬかずいていると、任口と芭蕉の笑い声が聞こえてくるような気がした。

 春寒の油ながれぬ微笑の上 實
 春寒の墓南天の苗一寸

※この記事は2008年に取材したものです

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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