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山中や菊はたをらぬ湯の匂|芭蕉の風景

「NHK俳句」でもおなじみの俳人・小澤實さんが、松尾芭蕉が句を詠んだ地を実際に訪れ、あるときは当時と変わらぬ大自然の中、またあるときは面影もまったくない雑踏の中、俳人と旅と俳句の関係を深くつきつめて考え続けた雑誌連載が書籍化されました。ここでは、本書芭蕉の風景(上・下)(ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

山中やまなかや菊はたをらぬ湯のにおい 芭蕉

行脚のたのしびここにあり

 元禄二(1689)年、『おくのほそ道』の旅の途次、芭蕉は小松から山中へと入る。ここは行基発見とされる歴史ある温泉。芭蕉も「その効有馬に次ぐといふ」と讃える。意味は「温泉の効能は有馬に続くということだ」。曾良と金沢の俳人、北枝が同行していた。旧暦七月二十七日午後四時半、到着。発つのは八月五日昼。滞在は九日に及ぶ。ゆっくり旅の疲れを癒したが、湯に浸かっていただけではない。この地での芭蕉からの聞き書きを北枝は『山中問答』(嘉永三年・1850年刊)という俳論書にまとめた。体調を損ねたとして、曾良は先に行くことを決める。はなむけとして、芭蕉と北枝、曾良とで三吟歌仙を巻く。後に芭蕉は多くの添削を加えた。連句研究に有意義な「翁直しの一巻」である。

 掲出句は紀行文『おくのほそ道』所載。句意は「山中であるなあ、菊は長寿の花と言われているが、ここでは菊を折ることもない、効能あらたかな湯の匂が漂っている」。

 北陸本線大聖寺だいしょうじ駅下車。バスに乗り換えて三十分ほど乗車、大聖寺川に近いバスターミナルで降りる。すぐ下に黒谷橋が掛かっている。現在は昭和初期建設のコンクリート製だが、かつてこの橋を芭蕉も渡っていると曾良の『随行日記』に見える。金沢の俳人句空の『俳諧草庵集』(元禄十三年・1700年刊)にも出てくる。

 その部分の文章を記すと、「この川にかかる黒谷橋は風景のすばらしい地だ。ここで芭蕉翁が平らな石に座って手をたたきながら『行脚のたのしび爰にあり』と一節を吟詠されたこともあったと自笑が語った」。この芭蕉の姿は楽しそうだ。

黒谷橋からの眺め

 自笑は芭蕉が山中で世話になった宿、泉屋の主、久米之くめのすけの伯父であった。『おくのほそ道』には「泊った宿の主人は、久米之助といって、まだ少年である」という意味のことが書かれている。当時まだ十四歳。自笑はおそらく久米之助の補佐役であったろう。芭蕉はこの少年に「桃妖とうよう」と俳号を与えている。「桃青」という自分の号から一字取っているところからも、愛情を注いでいることが知られる。

 命名の際、「桃の木の其葉そのはちらすな秋の風」という句も残している。意味は「桃の木についているその葉は散らすな、秋の風よ」。桃妖を思いやっていることはよくわかる。芭蕉のこの橋への吟行には、自笑とともに久米之助も同行していたろう。

 橋の近くには芭蕉堂が建てられていた。明治四十三(1910)年の建立。久米之助の句碑もあった。「紙鳶きれて白根が嶽を行方かな 桃妖」。意味は「凧の糸が切れて白根が嶽、白山の方を行方とすることだ」。なかなか大きな句だ。ここから上流のこおろぎ橋までの1.3キロは「鶴仙渓かくせんけい」と名付けられている。深い緑と奇岩をめぐる流れを楽しみながら歩いていくと、芭蕉が訪れた道明どうみょうケ淵に掲出句の句碑があった。文久三(1863)年建立のものだ。

鶴仙渓
こおろぎ橋

美少年の面影

 菊は長寿の花である。中国古代、周の穆王ぼくおうの寵童、慈童は酈県れきけんに流されたが、王よりたまわった(仏の教えの言葉)を菊の葉に書きつけたところ、露が谷川に流れ入って霊水となり、八百歳まで生きたという。謡曲『菊慈童』となる故事による。

 掲出句に実際の菊は描かれない。山道に見た菊の花が湯気にかき消されるような不思議な味わいがある。菊慈童、美少年の面影も浮かんでは消える。久米之助が菊慈童と重なる。久米之助は、桃妖という俳号からして美貌だったのではないか。勢いよく流れる大聖寺川が酈県の谷川に重なる。

 句碑の句型は中七が違う。「きくはたおらじ」、これが初案であった。濁音は「じ」一つ、ちょっと強く響きすぎる。「や」と「じ」両方が切字でもあった。『おくのほそ道』では掲出句の形に変えられている。ここの湯は透明で強い匂いはない。改作は句を柔らかな湯質にふさわしくする試みでもあった。

 翌朝、芭蕉の館に行く。明治時代の湯宿の建物に芭蕉関係の資料が収められている。館長は芭蕉が参拝した医王寺の住職。よく響く声で説明いただいた。かつては湯ざや(共浴場)を十二軒の湯宿が囲んでいた。それは薬師如来と十二神将に重ねられていて、館長は湯に入る際、湯を拝してから入るとのことだ。温泉と仏教との古い関連を思う。湯本十二軒は温泉を再興した長谷部信連のぶつらの家臣の末裔で、その中に久米之助の泉屋もあったとのこと。久米之助の出自には、どこか高貴さをまとっている。

 展示品の中に泉屋伝来の芭蕉より伝わったとされる仏像四点と舎利塔一点があった。すべてを芭蕉がもたらしたとは考えにくいが、どれか一つならばありうる。携帯用の厨子に収められた、簡素な木彫の地蔵菩薩像があった。金銅製は旅には重い。これではなかろうか。地蔵ならば芭蕉の分身にもなりうる。別れの日、芭蕉が少年桃妖の掌に置いている様を想像した。

 北國銀行とみのわ呉服店の間に立つ「芭蕉逗留泉屋の趾」を確かめ、共浴場へと向かう。行基ゆかりの天平風建築の「菊の湯」が、芭蕉の入った共浴場の現在である。名も芭蕉の掲出句から取られたものだ。

新秋のみどり差す温泉をひらく 實
一岩いちがんに苔と秋草流れを出

※この記事は2005年に取材したものです

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小澤 實(おざわ・みのる)
昭和31年、長野市生まれ。昭和59年、成城大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。15年間の「鷹」編集長を経て、平成12年4月、俳句雑誌「澤」を創刊、主宰。平成10年、第二句集『立像』で第21回俳人協会新人賞受賞。平成18年、第三句集『瞬間』によって、第57回読売文学賞詩歌俳句賞受賞。平成20年、『俳句のはじまる場所』(3冊ともに角川書店刊)で第22回俳人協会評論賞受賞。鑑賞に『名句の所以』(毎日新聞出版)がある。俳人協会常務理事、讀賣新聞・東京新聞などの俳壇選者、角川俳句賞選考委員を務める。


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