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“おちゃ” 茶道の中で忘れられた対話の精神

10月31日は「日本茶の日」です。
万葉集研究の第一人者である中西進さんによる2001年刊行のロングセラー日本人の忘れものより、“お茶”と日本人の関係について考察したエッセイをお届けします。


『日本人の忘れもの』
中西進 著(ウェッジ刊)

お茶から離れられない日本人

 子どものころ、ふしぎだったことの一つに、毎日御飯を食べる食器を茶碗とよぶことがあった。飯碗のはずが、どうして茶碗なのか。同じ疑問を持った人も、多いのではないだろうか。

 いや、お茶のふしぎはいっぱいある。日本中、いたるところにある喫茶店。あそこにはコーヒーを飲むところだのに、お茶を飲む店という名前がついている。もちろん、紅茶を飲む人もいるが、緑茶はほとんどない。緑茶があれば「和風喫茶」というほど、単なる喫茶店はコーヒーが主である。

 そもそも現代の喫茶店はヨーロッパのコーヒーハウスが入ってきたものだから、やはり喫茶店はコーヒーが主役のはずだ。

 また、子どものころ、家で茶の間といえば食事をするところだった。食事時になると卓袱台ちゃぶだいを立てて食事をする。食事が終わって台をたたむと、後は居間になる。要するにリビングルームを茶の間というのが一般家庭だった。

 どうしてリビングルームを茶の間というのか、これまたふしぎだった。

 まだまだ少年ふしぎ物語は、いっぱいある。相撲を見に、父親につれていかれるとお茶屋がいっぱい並んでいる。いまでも変わらない。そこは見物客をとり扱い、食物や土産物をどっさりマスまで運んでくれる店だ。それをどうして茶屋というのか。

 お茶屋は長ずるに及んで、遊び場にも密接に関係していることを知った。芸妓さんや舞妓さんのいるのがお茶屋であり、売れない妓はお茶をひくといわれる。料理を食べるところも料理茶屋であり、世には茶屋通いとか茶屋狂いとかということばもある(これらは子どものころのふしぎ物語ではない!)。

 単純な仲がどうして「茶飲み友だち」なのだろう。ごまかすことを、なぜ「お茶をにごす」というのだろう。

 いまでもお寺や神社に付き物の休憩所が、どうして茶店か。団子を食べたり甘酒を飲んだりするが、緑茶を注文する人はひとりもいない。

 こうして世の中には「茶」が氾濫している。しかもすべて茶以外の「茶」だから、日本の風俗をみたす茶の力はすごい。

 いや茶は全世界を支配し、どこへいってもチャ、ティ、テ、チャイとよばれ、世界的に広がるといわれる塩の呼び名以上の、横綱級である。

 当の中国自体でも飲茶ヤムチャが料理の一つの種類をさすように拡大している。

 これほど人びとから愛されるから、最近のペットボトルのお茶合戦は激しい。あらゆるメーカーが製品を出し、安易な製品は売れなくなった。コンビニの陳列ぶりが売れ行きをまともに反映するし、最近は街頭の大看板にまで茶の宣伝が姿を見せた。

 この合戦は、いまのところ、茶本来の甘味や渋味が勝利をおさめたらしい。

 茶を飲まなくても茶碗といい、茶飲み友だちがいるほどに、やはり日本人は茶が好きなのだ。お茶との関係を、切っても切れないのが日本人、そして全人類である。

茶室は「新人類」武士に対するとりでだった

 そこで日本人の喫茶をつくづくと考えてみることになる。

 そもそも茶は毒消しの薬だったが、16世紀ごろから飲料となり、いわゆる茶道までも完成した。

 この完成に大きく貢献したのが、16世紀の堺にいたごう衆だった。会合衆とは、堺の商人で、同時に町の行政に当たった人たちである。有名な千利休が、その代表である。

 都合がいいことに、当時堺にはキリスト教の布教に来た宣教師がいて、町の模様を書き残してくれているから、喫茶の様子もよくわかる。

 ルイス・フロイスが書きとめた見聞録『日本史』にも堺での布教のことが見えるし、彼の通訳をしたアルメイダの『耶蘇やそ会士日本通信』も忠実な見聞録である。

 それらによると、まず堺は堅固な防衛都市だった。西側は海、そして三方は深い堀によって囲まれ、堀にはいつも水が充満していたという。いまでも土居川という川がある。周りをかこんだ堀のなごりである。

 それでは会合衆は、何を守るためにこんな都市を作ったのか。

 もちろんふつうに考えれば町の生活や財産、自由な自治だろう。

 しかし会合衆はたくさんの人たちが茶屋をもち、そこで茶を飲むことを楽しんだという。

 茶室の数は1560年代に20、1580年代には38にも及んだらしい。彼らはそこで茶会を催すのである。

 まさに、この茶会こそ堺の商人たちの生活の中心をなすもので、この生活の自由を守るものが堅固な堀だったということもできる。

 逆のいい方をすると防衛都市の中核が茶室だった。

 その証拠に、いまでも茶室は特別な空間である。まわりには結界石といって、石に十字の縄をかけたものがおかれる。それより内側は聖空間だという印である。

 そしてまた、宣教師たちを驚かせたものが茶室の作りだった。邸の中の茶室部分は、まわりを山林仕立てにしたり、農家のふうに作ったりして、茶室の一隅は自然そのままの風景を見せていたという。

 まわりの都市の様子とは、まったく別の自然を作り、その中心に茶室を据えたらしかった。

 だからこの空間を、住宅のごく一部の付属物と見ることはむずかしい。濃縮された精神的な象徴空間としか見えない。

 しかもこの濃縮ぶりを示すように、茶室は四畳半がふつうだった。のちには二畳のものもできるが、あいかわらず四畳半が主流である。ちなみに私の子ども時代も、さっき言った茶の間は四畳半。この部屋の呼び名は、茶の間か四畳半だった。利休時代から400年もたっているのに。

 じつは、以前問題にしたものに、住まいの中の床の間がある。

 この床の間は同じ時代に発達した「書院造」とよばれる建築様式での晴れの場所であった。そして書院造とは、武士を中心とする人たちの住まいの作りだった。

 床の間が主人の座る、晴れの場所だったと書いた。つまり身分の上下関係をはっきりと示すものが書院造だったが、四畳半の茶室は、それにまっ向から対立する。武士好みの上下関係による建物の考えと、茶室は正反対なのである。

 このころ、堺をおびやかしていたものは、織田信長をはじめとする武士たちだった。四畳半の茶室を守ろうとする精神は、書院造をよしとする精神を拒否しなければならない。

 それでこそ、町のまわりに堅固な堀を掘った意味もわかるだろう。堀から守ろうとしたものが「茶室」の精神だったということも、賛成していただけるのではないか。

 武士は、この時代に台頭してきた新しい実力者である。いまふうにいうと「新人類」ということになる。堺の商人たちは、この新人類の価値観をまっ向から否定した。その精神的な、心の砦が茶室であり、そこで喫茶することが茶道だったのである。

平等と平和と対話に喫茶の本質がある

 ところで今日にまで及ぶ茶道が、もしこの本質を失っていれば問題である。

 日本人は型を重んずる。型になじみ、型を体得することで精神を得ようとするばあいも多い。

 だから茶道が型を教え、ほとんど型以外は無言の教えにゆだねていることも、よくわかる。

 しかし、以上のように考えてくると、私はお茶を飲むことの本質を、日本人がもう一度、思い出してみる必要があると思う。その本質とは、

 平等
 平和
 対話

 の三つだと考える。

 まず平等とは、上下関係にある武士階級の考え方と反対の、心の自由である。よく人が言うように、茶室には、にじり口から入る。そのためには刀など捨てなければならない。

 かりに堅固な堀を突破して武士が乱入してきても、この入り口で彼らはもう一つの抵抗にあう。

 人間の関係が平等、対等であるという考えは、堺が接した南蛮人との関係から生まれたのではないだろうか。例のアルメイダがいうところによると、「この町に来ると敵対していた人も友人のようである。他人に害を加える者はいない」という。異国人だからといって区別しない平等、対等の精神は、堺の国際的な性格がうんだものにちがいない。

 つぎに平和の精神。これも戦乱の社会を否定して、茶室を別天地として独立させた会合衆たちの知恵だった。

 この別天地はあくまでもおだやかな自然そのものであり、いってみれば桃源郷のような世界である。そこには乱暴な武力もない。荒あらしい破壊もない。ただあるものは秩序による統一だけだ。

 茶道が型を重んじるといったが、型を重んじる精神こそ、秩序正しくあることで心の平和が保たれ、礼儀にかなった振る舞いができると考えた結果だ。そのためには静寂も必要である。作られた自然の中で、俗界の騒音を断ち、心の安らかさを得て、はじめて茶をたしなむこともできるはずである。

 そしてもっとも大事なのは、喫茶における対話だろう。

 これまたアルメイダの「敵対しあう人間もここでは友人のようだ」というせりふにあるように、心を開き合うことが喫茶の最大の眼目だったらしい。

 今でも「お茶にする」といえばくつろぐことであり、それによっていままでのうるさい論議の場はなごやかな社交の場となる。喫茶のふしぎな社交力。考えてみれば喫茶に関係ないお茶屋も、リビングルームである茶の間も、みんな社交や会話の場である。茶飲み友だちも、社交上の一つのあり方をいう。

 じつは喫茶の社交性は、とくにヨーロッパのコーヒーハウスが典型的らしい。以前社会学者の井上俊さんと茶屋やコーヒーハウスについて、大変おもしろい対談をしたことがあった。その時の井上さんの説によると、コーヒーハウスは一七世紀、資本主義の発達にともなって盛んになり、そこで彼らはビジネスや政治の話をしたという。18世紀前半にコーヒーハウスは最盛期をきわめ、ロンドンでは60万人の人口に対してコーヒーハウスが2000軒以上もあった。そこで彼らは情報の交換をした。

 この様子は、人数の多い少ない以外は、日本の茶室にひとしい。その流れの中にヨーロッパのコーヒーハウスが入ってきたから、コーヒーハウスは喫茶店と訳されることになった。

 いや、さらにその前に茶屋という呼び名で大衆の社交場ができていたから、コーヒーハウスは、いっそう素直に喫茶店になることができただろう。

 ところが今や茶道も型に傾きがち、喫茶店(若者はこれをサテンとよぶ)は騒然たるおしゃべりにみちた場にすぎない。

 この両方は歩みよれないものか。

 茶道では平和の中で平等に会話できる喫茶の真髄をおしえてほしい。

 喫茶店にも茶室の現代版があってもいい。ただ若者たちがアイミテ(アイスミルクティのことだそうだ)を飲んではわいわい、がやがや喋っているだけでは、日本の伝統が生きないと思う。

文=中西 進

中西 進(なかにし・すすむ)
一般社団法人日本学基金理事長。文学博士、文化功労者。平成25年度文化勲章受章。日本文化、精神史の研究・評論活動で知られる。日本学士院賞、菊池寛賞、大佛次郎賞、読売文学賞、和辻哲郎文化賞ほか受賞多数。著書に『文学の胎盤――中西進がさぐる名作小説42の原風景』、『「旅ことば」の旅』、『中西進と歩く万葉の大和路』、『万葉を旅する』、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』『国家を築いたしなやかな日本知』、『日本人意志の力 改訂版』、『情に生きる日本人 Tender Japan』(以上ウェッジ)など。

出典:日本人の忘れもの 2(ウェッジ文庫)

≪目次≫
第1章 営み
わたし  日本人らしい「私」が誤解されている
つとめ  義務や義理にしばられてしまった日本人
こども  自然な命の力を育てたい
もろさ  自然な人間主義を忘れた現代文明
あきない 立ち戻りたい商業の原点
まこと  改革はウソをつかないことから始まる
まごころ 人間、真心が一番である

第2章 自然
みず   水の力も美しさも忘れた現代人
あめ   雨は何を語りかけてきたか
かぜ   風かぜは風ふうとして尊重した日本人
とり   鳥が都会の生活から消えた
おおかみ 「文明」が埋葬した記憶を呼び戻したい
やま   山を忘れて平板になった現代人の生活
はな   日本人はナゼ花見をするか

第3章 生活
いける  花の本願を聞こう
かおり  人間、いいものを嗅ぎわけたい
おちゃ  茶道の中で忘れられた対話の精神
みる   識字率のかげに忘れられたビジュアル文化
たべもの もう一度、「ひらけ、ごまゴマ」
たび   つまみ食い観光の現代旅行事情

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