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【うつ病になった大学生】   診断名がついに変わりました!

なんとも元気そうな勢い付いたタイトルをつけてみた。

要は、これまで「適応障害」だと診断されていたわたしの病気が、この度正式に「うつ病」へと変わったということである(なんともおめでたくない話だ)。

ということで、タイトル名も変更してみた。

カウンセラーさんに尻を叩かれ、いますぐ病院の予約を取れと言われたわたしは、なんとか今日中に見てくれる病院を見つけ(精神科において初診の当日予約を許してくれるところはなかなかない)、新しい病院に行った。

病院の雰囲気はとても良かったし、初めてあんなにちゃんと話を聞いてもらった(いかに今までの主治医が不十分であったかを理解した)。

転院先に決めていたのはここではないのだけれど、ここにするのもありだなと思うくらい、いい先生と出会えたので、思い腰を上げていってみて良かった。

今日は久しぶりに勉強机を整理して、そこで文章を書いている。

いつもは元気がなくてローテーブルとソファに蹲りながら、もしくは布団の上でスマホをぽちぽちしながら書いているので、ちょっと成長。

とはいえ、うつ病と診断された以上、確実に悪化していることは間違いないし、休学を勧められたのも事実だ。

授業はゼミ以外諦めた。初めての落単だ。

最近は新しいエッセイを書き始めた。小説も3本ほど書いた。

頭が回らないと言いながら、今のわたしには書くこと以外、この世界と自分をつなぐものがないので、なんとか書く。

言葉を紡げないことが、わたしにとってこんなにも絶望的なことなのだと、わたしは初めて知った。

だからなおのこと書く。

絶望しても絶望しても、なんとかこの世界に絶望していることを叫ぶために、書くのだ。

「絶望しています!」と叫んでいる間は死なないから。

叫ぶのをやめた途端、わたしの心は死んでしまうよう気がするから。

何も、ポジティブなことは書けなくていい。賢そうなことも、面白いことも書けなくていい。

「辛い」「悲しい」と書くだけで、わたしはわたしの傷を抱きしめてあげられる。

エッセイが、自分の書きたいことを他者にわかりやすく、かつ面白く書く文章であるならば、わたしの文章はただの自己満足で、とてもエッセイなどと呼べるものではないのかもしれない。

しかし、同じような境遇の人が、ほんのわずかでも共感し、言葉にならなかったものを言語化する手伝いができるなら、もしかしたら、わたしのこの拙い文章も、エッセイと呼ぶことができるようになるのかもしれないという淡い希望を抱いていたりする。

「ほのちゃんの文章は、痒い所に手が届く感じがする。きっとこの人ならわたしが言いたいことを言ってくれるみたいな信頼感がある。」

そんな言葉をもらったことがある。

とてつもなく嬉しかった。

わたしは、多分、人よりも言語能力が高いから、ちょっぴり感情を言語化するのが得意なのだと思うし、それが強みでもあると思う。

それを、こんな風に表現してくれる友人がいて、何より、わたしの文章を読みながらそんなことを考え、伝えてきてくれたことがとても嬉しい。

「信頼感のある文章」というのが、どういうものなのかはまだわからないが、とにかくわたしはわたしの感情に素直に書いている。

思ったまま、ほとんど校閲することなく、脳内を垂れ流している。

それがもしかしたら、ありのままのわたしの本音であるという信頼感なのかもしれない。

そうであるなら、それこそわたしの文章の強みになるだろう。

わたしはそんな文章を書きたい。

取り繕った文章ではなくて、ありのまま、醜いものも綺麗なものも全て差し出して、一緒に生きていることを感じたいし、生きているということは尊いことなのだということを共有したい。

こうやって書きながら、ああ、そうだ、わたしはそう思っていたんだと、わたし自身も新たに発見しているのだ。

文章を書くとはなんとも面白い行為だなぁ。

誰か、わたしの言葉を歌にでもしてくれませんか。

わたしの身体から離れたわたしの言葉の音を聞きたい。


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