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【私が書き続ける理由】 生きづらさの海を、一緒に泳げるようになるために。

できるだけ早く本題いけるように頑張るのでちょっと踏ん張って読んでくださいね。

私は幼稚園児の頃から、漠然とした生きづらさを感じていました。人の負の感情に共鳴しやすく、どうしたら周りの機嫌を損ねずに生きることができるかばかり考えている子どもでした。自分の意思とは裏腹に、自然と人の気持ちが染み込んでくるんです。心が侵食されるみたいに。

この生きづらさは20年くらいずっと私の背中にのしかかっていて、大学生の時には精神科医から、軽度の愛着障害双極性障害と言われたこともあります。なんでもかんでも病気と名付けて薬を大量処方する今の医療を、私は全く肯定できないのですが、病名をつけるならそのふたつが正しかったのでしょう。

あれから約5年間、あらゆる本との出会いや人との出会いによって、私はこの生きづらさと仲良くなりました。自分の中にある思い込みや偏見をひとつずつ解いて、だんだん”自分”との距離感を掴めるようになったんです。

見える世界が全然変わったのでとても驚きました。自分の中に太い幹のようなものが生えた感覚です。どっしりとした幹。もちろん人間なので凹んだり辛いこともあるけど、幹は折れません。枝葉が少しやられてしまうだけで、”自分”は大丈夫なんです。「だいじょうぶ、大丈夫」と自分で自分の頭をなでることができるからです。

私はずっと書くことが好きだったので、大学生の頃からnoteを書くようになりました。自分の心の機微は、きっと、私だけじゃなくて多くの人が抱えているだろう。そう思って、少しでもその気持ちと繋がりたい、共感したいと思って書きました。するとやっぱり予想通り。たくさんのコメントをもらいました。全く連絡をとっていなかった友人からもコメントがきて、嬉しかったです。こうやって自分の考えや変化や失敗談を言葉にするだけで、その言葉に少しでも救われてラクになれる人がいるんだ。そう思うと、やっぱり書いていてよかったと思えるんですよね。

そんなこんなでもう3年くらいでしょうか。毎日とはいきませんが、定期的にnoteを更新して、自分の考えをつらつらと書き続けています。いろんな本を読みあさり、専門家の話を聞き、それをもとに自分なりの解釈を更新しています。

さて本題。

タイトルにもありますが、私がnoteを書き続ける理由は、私の友人や家族・親しい人達と、生きづらさの海を一緒に泳げるようになりたいと思っているからです

一緒に泳ぐきっかけとしてnoteを書いています。私の記事を読んだ人が「こんな思考世界の中で生きている人になら、なんか相談できそうかも。相談はハードル高いけど、ちょっと気楽に話せるかも」そう思ってくれることが私は1番嬉しいですし、そう思える言葉を選んで紡いでいるつもりです。読者に共感しすぎず、でも一方的に説教するでもない。時には若干強めに背中を押して、時には真正面から抱き留める。そんな文章を書いています。いや、まだまだ全然未熟なんですけどね。


私は、生きづらさの海の泳ぎ方を教えるなんて大層なことはできません。人それぞれ辛さや苦しさのベクトルは全然違います。自分が泳げるようになった方法を相手にそのまま教えても、その人が泳げるようになるわけではないからです。

だから、自分とは違う苦しみを背負って生きている人たちと会話をして、その中で気づいた私自身の思考の歪みとか、偏見とか、新たな発見とか。そういうモノを咀嚼して、理解しようと試みて、いつかは一緒に泳げるようになりたいなと思っているんです。



みんなしんどいんだよ。苦しくても続ければ、そのうちメンタルは強くなるよ、だからやめない方がいい

私が生きづらさで押しつぶされそうだった時。鬱を経験したことのある知人の一言がとても衝撃だったのを覚えています。

鬱と診断されて薬を飲み、一時期は本当に見ているのも辛いくらい苦しそうでした。でも彼女なりに向き合って乗り越え、体調が安定してきた頃に、この言葉をかけられたんです。

すごく焦りました。そうか、私は自分に甘えているのか。この気持ちは分かってもらえないのか。苦しくても続けないと今の生きづらさは治らないのか。何が1番辛かったって、自分と似たような境遇の人に、自分の気持ちを真正面から否定されたような気持ちになったことです

今なら分かります。彼女は、彼女なりの泳ぎ方を発見していたのだと思うんです。だから私に、こう泳げばいいのよ、と教えてくれたんだと思います。善意です。私に良くなって欲しいから、そう言ってくれたのだと思います。でも、その泳ぎ方は私には合わず、より一層海の奥深くに沈んでしまうんです。


経験者が語ることはとても参考になります。でも参考にしかなりません。心からその人が元気になってほしい、少しでも生きやすくなってほしいと願うなら、経験をもとにすぐアドバイスするよりも、まずはその人の話を深く、深く聞くのが何より大事です。聞いて、理解できないのなら本を読む。頼りになりそうな専門家の話を聞く。そうやって少しずつ、相手の見てる世界に自分を重ねられるように、努力するんです。

ソクラテスになりましょう。「私は無知である」と唱えて、どうしたら相手に1歩近づけるかを探り続ける。失敗してもいいんです、たまにお節介になっちゃってもいいんです。安全な岸辺から海に向かって泳ぎ方を指導するんじゃなくて、一緒に海に入って泳いでみることが何より大事。

それを続けていくと、だんだん分かってきます。そしてきっと驚くと思います。ああ、君はこんな世界を見ていたんだねって。そこからです。一緒に泳ぎ方を考えるんです。

こんな簡単に書いていますが、ここまで来るには相当な時間と意識的な努力が必要だと思います。もちろん、経験則に当てはめることなく、人の話を本当の意味で聞いて、対話できる人もいます。私の周りに何人かいます。精神や哲学、医療など専門的な知識を有していないのに、これはもう才能としか言いようがないのですが、ナチュラルな状態で相手の話を聞くことができる人もいるんです。

でも、人間はどうしても私情が挟まってしまうもの。だから努力が必要なんです。分かった気になって相手に一方的に説教するのが1番怖いことです。

今はなにかと発信しやすい世の中ですから、大衆に向けてウケの良い内容を書く方が、反響は得やすいとは思います。トレンディな言葉を並べた方が、きっといいねもつくのだと思います。でも、私がしたいことは一緒に泳げるようになることです。自分なりの泳ぎ方をみんなに教えるのではなく、一緒に生きづらさと仲良くする方法を考えたい。

草の根レベルでいいんです。半径10メートル以内にいる人たちと一緒に泳げるようになれれば、めちゃくちゃハッピーです。

だから今日もたくさん読むし、たくさん書きます。たくさん考えてたまにへこたれて、なんとか起き上がってまた書きます。大事な人達が見ている景色を、私もいっしょに見られるように。

いつか生きづらさの海で、荒波をいっしょに乗りこなして、爽やかにサーフィンでもしましょうね。



今後の執筆活動やデザイン・アート活動の糧にさせていただきます。いつか絶対に恩返しするために。