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その生きづらさ、社会の中で答えは見つかりそうですか?

仕事がある日でも毎日5000字くらいは書いてますのよオホホ〜!と某SNSで鼻高々に公言した次の日からnoteをパタリと更新しなくなったオオカミ少年のアカウントはこちらです。

いやあ。素直に不甲斐ないです。前にnote書いてから1か月くらいでしょうか。近況報告はほどほどに早く本題行けよというオーディエンスの声が聞こえてきますが、少しだけおしゃべりさせてくれませんか。書きます、ちゃんと本題も書きますので。

有難いことに、仕事が思いのほか忙しくなったのですね。ほんとに、有難いことなんです。いただいたお仕事で失敗して落ち込んだり、自分の成長を感じられてわくわくしたり。感情の振れ幅がとにかくエグくて、この1ヶ月はとにかくデザイン、デザイン、そしてデザインの毎日でした。

しかもね、上司とお話した感じだとこれから1-2ヶ月は今以上に繁忙になりそうで!心の余裕も時間の余裕も失いそうな予感なのでございます。「私はきっとこの先しばらくおかしくなる。ケアを頼む」と同棲してる彼に頭を下げました。あはは〜大丈夫だよ〜なんとかなるよ〜とSwitchでポケモンしながら笑ってたけどそれほんと?なんとかなってくれと願うばかりです。

そんで案の定体調もグラグラでして、ここ1年ほど慢性的にお腹が痛いなーと思って放置していたのですが、いよいよ痛みが強くなる時が増え、俺ァまだ死にたくねえ!と観念して病院に行きました。過敏性腸症候群という長めの診断をもらい「若い人によくある自律神経系の疾患だから気にすんなってばよ」とドクターからお墨付きをもらって帰路に着いたわけです。

上司にも言われましたが、ほんとに、健康第一です。ほんとに。仕事のためにも自分の人生のためにも。体の悲鳴は無視せず、耳を傾けようと反省した瞬間でした。

noteもチラチラ覗きには来ていましたが、書く気力はあるわけもなく。朝起きてから寝る直前までデザインのことで頭いっぱい、お腹もいっぱいの毎日でございました。

で、今日は少し気持ちに余裕が出来たのと、本業の方がこれから死ぬほど忙しくなる予感なので、辛うじて自己を保っている今しかチャンスがないと思って、こうして書いております。



さて、やっと本題です。前座にお付き合いくださりありがとうございました。長かったね。申し訳ないです。お話できてすっきりしました。

いつものように哲学のおはなしをします。とはいえ、学問的・専門的なことではありません。最近ふと考えていた「呪い」についてのお話です。

ありがたいことに、こうやってnoteを書いていると、読者の方から心の相談をいただくことがあります。

みなさんが共通して持っているのは幼少期からの強い生きづらさです。そして、それを解消・埋め合わせる手段として、仕事や学業での成長やステータスの獲得、他者からの肯定を上げてくださる方が多い印象です。

つまり、生きづらさの正体は自己肯定の不足・承認欲求不満であり、社会の中で何かを「得る」行為によって解決を試みているのだと思います。極端に言えば、社会の中にしか自己肯定に繋がるきっかけがないと思っているということです。

でも、そう思って色々手を尽くしてみたものの、やはりうまくいかない。仕事の内容を変えてみる。働く土地を変えてみる。学生さんであれば、学ぶ内容を変えてみる。付き合う友達を変えてみる。手段を変えて色々トライしたけれど、同じようなところで”詰まり”を感じる。虚無感が消えない。はてどうしたものか。路頭に迷ってしまいます。

でも自分の意思で決めてきたことばかりだし、それを曲げるのはなんだか悔しい。周りにそれを伝えるのも、弱い自分を晒すようで恥ずかしい。自分の本音とは裏腹に、プライドや見栄が表に出てしまうから、生きづらさにフタをして、隠すようになってしまうこともあります。ちなみにこれは、かなり危険信号だと私は思っています。排水口が詰まった状態で水を垂れ流し続けるのと同じことだからです。


まず、生きづらさを解消するために、色々手を尽くしてトライするのは、すばらしいことだと心から思います。仕事や学業を変えるとか、人間関係をリセットするって、なかなか簡単にできることじゃないです。今は何かと不景気だし、この先の未来どうなるかわからないし、年金とかなんか怖いし。そんな不透明な中でも、自分の意志で、自分が幸せになるためにひたむきに頑張る姿勢は、本当にかっこいいなと思います。とってもすごいことです。


私がこのnoteで書きたいのは、あくまで代替案のご提案です。社会での自己実現やステータスの獲得など、あらゆる手を尽くしても、いつも同じようなところで"詰まり"を感じるな、という人に向けて贈るご提案資料になります。

足し算方式で自分の価値を定義していくのではなく、むしろ引き算をすることで、光が差し込むこともあるかも?という予感と自身の経験をもとに書いています。

その代替案というのが、
問い直しと呪いの解除です。



呪いってなんやねん

7000字くらいのnoteになりそうでして、このままダラダラ書いてしまうと読みづらいことこの上なしだと思うので、目次をつけさせていただきました。まずは呪いの内容についてです。


人間誰しも、幼少期から無意識のうちに植え付けられた「呪い」があります。それは、保護者の価値観や行動をはじめ、幼少期に体験したこと、トラウマ、世界や社会の流れなどが起因して発生するものです。

似た言葉として、常識や偏見、先入観などがありますが、それらは解除することが比較的容易な部類だと思います。他者との関わりの中で気づき、自覚する。一方で呪いは、自覚するだけでは解除することはできません。泥臭くて、比較的しんどい戦いがそこにはあって、しかし解除さえすれば、見える世界が一変するという、ある種人生の突破口でもあります。

呪いは、社会とは切り離された場所に巣食っているものです。居住場所は心の奥底です。自身のアイデンティティが心の核だとすると、呪いとはそれを覆っている膜のようなものです。



呪いを解除していくステップ

解除とは和解です。決別ではありません。呪いに気づき、その存在を認め、和解する。共に生きていく方法を模索する。コツを見つける。これこそが呪いの解除だと私は思っています。

呪いの存在自体に気づくことは比較的簡単だと思います。個人談になって恐縮なのですが、私は小学生くらいの時から、呪いの存在について考えていました。人から怒られる・指摘される経験が乏しすぎる自分自身に、一種の恐怖心を持って生きていたのです。

大人の目を気にして「良い子」を演じ、いわゆる優等生として見られることが多かったために、上の立場の人から叱られる経験がほとんど0に近かった記憶があります。

人からの怒りを買わないことは平和なことなので、心は穏やかです。でも同時に「失敗は許されない」「周囲の期待以上の自分でいなければならない」という呪いを、自分にかけていました。家族の前で見せている本来の自分は、驚くほどにだらしなかった。部屋も汚いし、親が課金してくれた進研ゼミにまったく手をつけないし、家事ぜんぜんやらないし。毎日のように怒られていたんです。

でもなぜか学校に行くとスイッチが切り替わって、「先生の期待にしっかり答える良い生徒」になれてしまうんですね。大人に褒められることはとても嬉しかったです。でも同時に、心の深いところでは、これはやばいのでは?という恐怖心も芽生えていました。失敗してはならない。周囲に劣ってはいけない。そんな呪いに気づいた瞬間でした。

でも気づいたところで、その呪いを解除しよう!!という話にはなりませんでした。呪いの存在を素直に認めることはけっこう難易度が高いからです。呪いを認めるということはつまり、自分の弱さや脆さとまっすぐに向き合うことにも繋がります。そして、自分の弱さに向かって「あなたはここにいていいんだよ」と声をかけることでもあります。

私の場合は、他者の期待値や視線を一旦おいといて、自分は自分のことをどう思うの?本当は何が好きで、何が嫌いなの?というところに目を向けないといけなかったので、とてもとても苦しい作業でした。

なんにもないからです。

今までずっと、自分の意思ではなくて周囲の視線やトレンドを分析しながら自己を築いていたので、いきなり自分の考え方を大事にしてみよう!!と言われても、そんなのできっこありません。それに加え、自分には何もないことを認めることすら、悔しくて恥ずかしいと感じてしまうのです。だから、呪いの存在を簡単に認められないのですね。

中学生・高校生になって部活を始めて、仲間同士で指摘し合う場面が増えてきた途端、どうしようもなく恥ずかしくて怒りに似た感情を覚える場面が増えました。素直に指摘を受け入れられないのです。「周囲の期待以上の自分でありつづける」という呪いが巣食っているからです。あーごめん!私が間違ってたわ、気をつける!と言葉にはできても、内心はモヤモヤ。私は完璧なはずなのに。優等生なのに。なんでこんな指摘をされないといけないの?という真っ黒な感情がじわじわと湧いてきました。

「そんなんじゃ誰からも嫌われないけど、誰からも好かれないよ」大学生になって、先輩から言われました。完璧であろうとするあまり、辛かったり苦しかったりしても平気そうに笑う私を見て、あまりに痛々しいと思っていたそうです。衝撃の言葉でした。

「辛い時に笑わなくていいのに」という言葉よりも、もっとストレートで鋭利で、心に深く突き刺さる感覚がありました。そんなんわかってるよ。でも、わからないんだよ。自分のことがよくわからなくて辛いんだよ。帰りの電車で一人、大泣きしながらこのまま消えてしまいたいとすら思ったほどです。消えたほうがどんなに楽かと。


呪いの解除をはじめるきっかけになったのは、コロナです。コロナウイルスの蔓延によって社会の機能がストップし、私も予定していた留学計画が白紙になって、家で過ごす時間が圧倒的に増えました。

そして、この頃に出会った友人と繰り返し行なった対話が、呪いを徐々にほぐしていく鍵にもなっていたと感じています。彼女は、私が感じる生きづらさやしんどさに対して「それは本当にそうなのか?」と根本を問い直してくれたんですね。

占いのように、答えを与えてくれたわけではありません。お医者さんのように、薬を出してくれるわけでもありません。ただただ「本当にそうなのかな?」と繰り返し問い直し、私の答えを聞いてくれるだけです。

問い直しこそが、呪いを解除する促進剤になると、私は思っています。
ひとりでやるのはなかなか難しいです。ひとりでは気づけないことが多すぎるからです。

問い直しを繰り返すことで、自分がいつの間にかかけていた呪いの存在を認めることができるようになり、弱さも脆さも自分の一部であると思えるようになります。見栄やプライドで覆われていたところが徐々に剥がれ落ち、心地よい光が差し込んでくるような、そんな感覚を覚えると思います。


その生きづらさ、社会の中で答えは見つかりそうですか?

呪いの解除は、とっても泥臭くて地道な作業です。問い直し、考え、実践することの繰り返しです。時間がかかります。心と時間の余白が必要になります。だからこそ、ソーシャルな場所から一旦離れる必要があると、私は思っています。ソーシャルな場所とはつまり、あなたが生きづらさを感じている場所のことです。例を上げるなら、学校や仕事です。

今までの人生で繰り返し起こってきた”詰まり”を本気で解消しようとするのなら、その詰まりが発生する場所から一旦距離を置かなければなりません。免疫うんぬんの話ではないからです。アレルギーのように、ずっと食べ続けていれば慣れてきて反応が起きにくくなる、というものでもありません。


でもきっと、今いる場所から離れるのって、あなたにとってすごく怖いことだと思うのですね。ソワソワして落ち着かないと思うのです。なにかしなきゃ、価値を生み出さなきゃ。周りに遅れを取りたくない。そう焦ってしまうと思います。

でも私が呪いとの和解を経験して感じるのは、あの時あえて遠回りして良かった。あのまま”詰まり”を感じながら生き続けていたら、後悔ばかりの人生だったと思います。世界の見え方も、感じ方も、視座や視野も、何もかもが変わる実感があったからです。

この社会って「ガンガン働こうぜ!」「学校でみんなで勉強しようぜ!」の方針がまだまだ抜けないので、生きづらさを解消する手段は労働活動やキャリア形成だと思ってしまいがちなのです。人生の多くの時間を労働に取られるので、心の有り様にスポットライトを当てる時間を、なかなか作りづらいのも事実です。

フィンランドやドイツでは、大人が人生に向き合うための学校として「フォルケホイスコーレ」が普及しています。芸術やスポーツなど、興味がある分野を学びながら、自分とはどういう存在なのか。他者との関わりの中でどう生きたいのか。そういった哲学的な気づきを得るための大人の学校です(決して宗教的なものではありませんのでご安心を)。

日本でもごく一部の界隈で注目されてはいますが、まだまだ浸透はしていません。それほどまでに、資本主義の考え方が地中深くまで根を張っていますし、人々は強い生きづらさを必死に隠しつつ、社会での自己実現によってそれらを解消しようと試みる傾向が強いのです。

でもそれでは太刀打ちできないことも、みんな気づきはじめています。苦しくなり、呼吸ができなくなる若者が年々増えています。呼吸ができないことを周囲に伝えられず、SOSが出せないまま命を絶ってしまう人が増えています。

とりあえず休息が欲しい。社会という箱から距離を置きたい。退職代行のサービスも流行っていますし、「会社を〇日で辞めました」という内容の投稿がSNSで溢れかえっています。もう、きっと限界なのです。

会社があらゆる手をうっているおかげで、いわゆる「ホワイト企業」も増えているのは事実です。膨大な予算をかけて雇用した人が辞めるのは、会社にとっては痛手ですから、対策を打つのは当たり前です。

ただ、驚くことに、ホワイト企業が徐々に増えている中でも、若者の早期退職率変わらないというケースを何度か目にしたことがあります。その理由はきっと、彼ら彼女らが心の奥底で求めていることが、社会の中で見つからないからだと私は思うのです。ホワイトとか、ブラックとか、実はあまり関係ないのかも、とすら思っています。

本当にほしいのは、自分の根本を問い直し、対話ができる時間と、信頼できる対話相手。そしてその先にある、呪いの解除。



まずは根を張り直すところから。

ただ、間違えてほしくないことが2つあります。

1つ目は、社会での自己実現やステータスの獲得が人生にとって無意味であるということではありません。私自身も今こうやって会社員デザイナーとして働いていて、将来はこんなデザインを作りたいなとか、こんな社会づくりに貢献できたらなと思うことは多いです。

ただ、生きづらさの解消と社会での自己実現には、あまりにもギャップがありすぎます。マイナスの地点から一気にプラス軸へジャンプしようとしているようなものです。まずは0に戻るところを目指す必要があります。

目に見えるスキルを獲得していくことによって、生きづらさが消えるわけではありません。効率や生産性が求められる環境下では、”人間としての自分”とじっくり向き合う時間はもらえないからです。生きづらいのは、自分に欠けているものがあるからだ、と思い、その穴埋めのような形で仕事や学業を頑張っても、きっとまた同じ場所で"詰まり"が発生します。生きづらさをほぐすために大事なのは、足し算より引き算だと思うのです。

だからこそ、まずは自分にかけている呪いの存在と向き合い、和解への道筋が見えた上で、社会で他者と関わる上で、自分がどういう選択をしたいか。つまり、自己実現やキャリア形成など、自分の人生を豊かにする方向へ向かうのが良いと私は思っています。


2つ目は、この呪いの解除や問い直しは、潜在的に求めている人もいれば、そうでない人もいるということですHSPや繊細さんという言葉を使うのはあまり好きではないのですが、そういった特性を持ち、生きづらさを感じている方々の中にも、求めている人と、そうでない人がいます。自分の心と向き合い続けることが必ずしも生きやすさに繋がるとは限らないからです。

向き合うことによって悩みの種が螺旋状に上昇し、いつか消えるということもあります。でも一方で、同じ円の中を永遠にぐるぐるとまわり続け、悩みの悪循環を産む場合もあるのです。だから、ある種の「割り切り」がその人を楽にさせることも大いにあります。私はこういう人間。だからしょうがない。この特性の枠内で生きていこう。そういう生き方が自分にとって最適解という人もいます。周りから見れば「それはただの自己満足だ」と思われるかもしれません。でも、究極的なことを言いますが、みんなそんなものじゃないですか。生きたいように生きる。それで良いのだと思います。


おそらくなのですが、ここまでの文章を丁寧に読んでくださっている方は、"問い直し"の作業を潜在的に求めている方なのではないかなと思います。そして、呪いの解除がいかに難しいことかを何となく分かっているのではないかな、とも思います。

そうなんですよね。難しいんです。でも、難しいよねで終わらせたくないんですよね

それはなぜなら、あなたがこれから先、自分を少しでも愛せる人生にしたいと心から願っているからです。

見栄やプライドという着ぐるみを脱いで、自分そのものを見てもらいたい。その着ぐるみの存在ごと自分を肯定して、嬉しいことも辛いことも素直に吐き出せるようになりたい。そうしたら、きっと、生きるのが楽しくなる気がする。そんな予感がするのですよね。

さいごに

呪いの解除を目指していくことは、自分に対して心からのアイラブユーを言えるようになることと同じ意味合いだと私は思っています。

表も裏も、光も闇も。二元論で語れないグレーな世界も。すべての自分を愛して、いつか他者を愛せるようになりたい。依存ではなく愛を。真心を。そう願うからこそ、"問い直し"を欲するのだと思います。

愛と書くと美しく聞こえるかもしれませんが、泥臭くて小さな実験の繰り返しです。だれかが与えてくれるわけではありません。何かのきっかけで劇的に変わるわけでもありません。自分の意思で、行動で、少しずつ変化が起きるものなのです。時には、自分の傲慢さや自惚れを目の当たりにして、ひどく落ち込むこともあります。でも、そこを突破したら、見える世界は変わります。成熟の実感がぶわーっと湧いてきます。


仕事で成功するよりも、誰かから認められ称賛されることよりも、大事で尊いことがあります。それは、自分自身を心から愛し、人生や世界を美しいものだと思える感覚です。それはもう、この先もずっと地を踏みしめて生きていこうという意志そのものだと思うのです。



今後の執筆活動やデザイン・アート活動の糧にさせていただきます。いつか絶対に恩返しするために。