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名作を現代につなげた、カズオイシグロ版「Living」(その2)〜「生きる」を刈り込み広げる

(承前)

「生きるーLiving」について、もう少し書きたい。ただし、ネタバレを含むのでご留意下さい。

前回同様、黒澤明版は「生きる」、リメイク版を「Living」とする。

「生きる」は143分、「Living」は102分である。脚本のカズオ・イシグロは何を刈り込んだのだろう。

“御役所仕事“という言葉がある。広辞苑によると、<形式主義で非効率的な官庁の仕事ぶりを皮肉っていう語>とある。たらい回しにされ時間がかかる。役所を訪れる人の立場に立つと、それでも目的が達成できれば良いが、手数と時間を費やしされた挙句、何も起こらないという事態になると最悪である。住民の要請事項に対し、“検討する“、“善処する“といった言葉を発したり、“当課の担当ではない“と逃げる。

主人公渡邊(志村喬)の生きがいを描くと共に、 こうした役所の状況を社会問題として、痛烈に批判したのが「生きる」である。

「Living」の方の主人公ウィリアムズ(ビル・ナイ)が働く場所も、London City Councilというロンドン市役所のような組織であり、「生きる」同様、子供の遊び場の建設についての陳情がたらい回しとなる。

ただし、「Living」では役所特有というより、組織によく見られる普遍的な問題として取り上げられていると感じる。同時に「生きる」では映画のもう一つのテーマという位置付けだったが、「Living」ではウェイトを下げている。

もう一つは父と息子の関係である。「生きる」では、太平洋戦争も絡めた、渡邊とその一人息子の関係が強調される。公開当時においては、息子を戦地へと送り出した親が、観客の中にたくさんいたことだろう。「Living」では、相対的にはサラッとしている。

こうした刈り込みをしつつ、オリジナルにおける印象的なシーン、(帽子、あだ名、オモチャのうさぎ!、etc.)はほとんどを取り込んでおり、まさしくリスペクトを感じさせるリメイクになっている。

「Living」では役所を辞めていく若い女性ハリス(エイミー・ルー・ウッド)とウィリアムズの場面が素敵である。フォートナム&メイソンでのランチ、クレーン・ゲームに興じる場面。そして、ウィリアムズが、“生きる“目的を見出す、二人の会話は名場面である。

ウィリアムズは自分の死期が近いことを彼女に告げ、息子にも言っていないことを話す。そして、若い頃、自分がなりたかったのは“紳士“だと言う。特別な“紳士“ではなく、帽子とスーツに身を包み、毎日ロンドンに通勤する。そんな存在だと。そして、“紳士“となった自分は、日々の苦労を重ねるにつれ、どこへ向かっているのかを見失った。それが、若いハリスを見て、“生きる“ということが如何なるものかを思い出したというのだ。

さらに、ウィリアムズはこんな話をする。「路地や広場で子供が遊び、親が呼んでも家に入らない、そんな光景を見ていた。一方で、遊びに加わらない、幸せそうではないが、不幸そうでもない。単に母親が呼びに来るのを待っている。そんな子供をたまに見かけることがある。自分はそんな存在になっているのではないか」と。

そして、ウィリアムズは自分の“生きる“目的を見出す。

カズオイシグロの脚本が公開されており、その74ページがこの箇所であるが、見事である。

こうして、ウィリアムズの遊び場作りが始まるのだが、彼が“生きた“意味は、第二次世界大戦でドイツが爆撃した廃墟を子供の遊び場へと変換したことだけではなかった。

仕事への取り組み方、人生の使い方について、今も“生きる“人々に伝えたこと、そのことがウィリアムズの生きたあかしなのだ。

我々は、ウィリアムズの教えを忘れていないだろうか。

これによって、1950年代の物語は現代とつながる。素晴らしい映画だと思う




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