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他者へ委ねる自分の感性

12月の風物詩に、漫才の『Mー1』がある
番組を観る中で、審査員と自分の意見が違う
「審査員はこう思ったのか。なるほど」程度
『Mー1』自体に興味が薄いので、この程度

チョロい世の中は変わりそうにない

思想が異なれど
「何、屁理屈拗らせているんだ」
呆れてしまうツイフェミなどが立派に思える
無知で矛盾があれど、自分の意志を持っている

影響力の強い政治家やインフルエンサーが
「これが正しいのです」
「あれはおかしいです」
「僕がポストすれば、イイネすればいいのです」
「ほらほら、足並みが揃わないじゃないですか」

誰かが言ったから、友人もやったから
自分も慌てて、波に呑まれに行く

数が多いほど世論操作はできて
間違いは間違いのまま、正しいとされて
正しいは、一部の声が小さい人の手元に残る

『Mー1』のようなお笑いも
「ここは笑うところよ!はい、笑って!!」
「キミ、笑わないなんてセンスないね」

こういう癖づけがされてきたからか
芸人の不祥事は、人気が高いほど批判されない
「○○ちゃんでしょ?わろた!」
これらのツイートにイイネが多数あると
自分の倫理観は不寛容なのかと流される

「これが良い」と決定されたものに
心が動かされていく人々

けしてバカにはしてないが、遠い目で世間を見る

石原慎太郎じゃないが
『NOと言える日本』のタイトル
書籍の内容はともかくとし
根底にある苛立ちへ、妙に共感してしまう

仲間意識と馴れ合いは異なる
自分の意思を他人任せにしない

みんながこう思ったから、じゃない
例えば
“常識”なら、この工程で作るのに
こう反応がある筈なのに
若者はどうしてああ作るのか
そして反応が違うのか

自分の耳目で得た情報から理由を推測し
若者文化を知り、中高年文化と比較する
「そういうね!」感心して、理解を示す

結局、何が言いたいかというと
自分の感覚を
他人へ感覚へ委ねるのが、自己否定の始まり

「ここが笑えるツボなんだよ」
「今の所は、笑わないところね」
いちいち教わり、他者と同じ共感をしないと
不安な自分って
常に他者と繋がりがないと気が済まないのだろうか

クヌギの根本に座っていると
ネズミとネズミがどちらが先に
どんぐりを見つけたか
互いを牽制しながら、やがてどちらかが譲る

目の前にあるどんぐりに固執せず
争いを避けたネズミは賢いと感動する

いつのまにか、感受性とは
他者との共感と涙脆さに決定され
信じる者が世論操作される
「これも独自の感性ってやつか」
指示待ち族とどう違うのかなと考えてしまった

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
 
茨木のり子
詩集「自分の感受性ぐらい」(1977刊)所収
「現代詩文庫」思潮社にも収録

https://www.matatabi.net/Poetry/ibaraki_01.html

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