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良心がなければなんでもできる


社会学の中で
「良心があるから悩む
良心がなければなんでもできる
良心があるからできないことがあるんだ」

「自分を高めるとは、悩みの次元を高めること」

教授が話すことを、車内の道中に置き換え
なんとなく理解したつもりでいた

社会経験のないわたしは
車内に高齢者が乗ってくると席を譲り
「人を年寄り扱いするな」
車両中に聞こえそうなほど大声でお叱りを受けた

それからは
耳には常にウォークマンからの音楽が流れ
見て見ぬ振りをし
「席を譲るなら妊婦さんだけ」

スカした顔をして、心は穏やかじゃなかった
こんなに疲れるなら立っておこうと決めたのも
学生時代だった

優しさは行動しても後悔が募り
更にはネットの発達で、見なくて良い意見に
自分の間違い探しをしていた



わたしは人様を大きく傷つけ
死にたい、消えたいと悩み続けたとき
noteへ自分宛のメッセージを書いた

わたしがわたしへ優しくし、心に余裕がないと
誰にも優しくなれない
先にわたしを救ってやらなければ

人に優しくするのは口では易しく、行うは難しい
優しさは「人に与える行為」で
わたしに余力がなければ到底できない

人様を大きく傷つけ、自分への期待値が下がった時
わたしは自分を慮り
つらい状況でも何らかの価値を見出し
他人を気にせず楽しむ度胸を持ち
少しずつでも力を蓄積してきた


優しさは基本的に目には見えなく
礼を言われることがないのを知っている
それでも悩んで動けないのはなぜか

目に見える優しさは、相手へ無意識に負担となり
相手にとってわたしは重く
やがて、わたしへ辛く当たる動機に繋がる

優しさが不要な人に優しさを押し売りすると
余計なお世話をするヤツとして認識され
舐められたり、マウントされたり、威嚇に発展する

誰に、いつ、どのように優しさを使うか
優しさは手段であり、目的ではない
優しさのタイミングを考える方がずっと大切で
だから、悩んで動けなくなってしまう


「良心があるから悩む
良心がなければなんでもできる
良心があるからできないことがあるんだ」
SNSの発達で、教授の言葉が皮肉にも刺さり
優しさは本質的に自分のためにある