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言語の壁を、前提とするか否か(映画「スティルウォーター」を観て)

どちらかといえば明るく快活な印象を抱いていたマッド・デイモンさんが、言葉数の少ない不器用な肉体労働者を演じた映画「スティルウォーター」。

留学先で殺人犯の汚名を着せられた娘の無実を晴らすため、フランスのマルセイユに渡る。言語も通じず、知り合いもいない。おまけにお金も十分にないという危機的な状況で、回り道しながらも真犯人を追うというサスペンス的な作品となっている。

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海外の映画の場合、言語の違いによるミス・コミュニケーションとはいうのはあまり見掛けない。

稀にお年寄りと若者ということで、「自分たちの言語しか喋れないんだ」といったシーンは時折見掛ける。本作はマルセイユに住む若者たちが、ちゃんと自分たちの言語しか喋れないという設定で、わりにそれが珍しく感じた。(「世界共通で英語が使えるはずだ」という、暗黙の了解のもとアメリカ映画は支えられている

言語が通じないことを前提としたときに、マッド・デイモンさん演じるビルの困惑はやっぱり大きかった。通訳を必要とするも、通訳を雇う金もない。知り合った大学教授には「そこまで力になれない」と断られ、さてどうしたものか?というところから物語はスタートする。

マイナスからのスタートだ。でも、それは人生においても同じだろう。

いくらスキルセットが十分になくても、お金がなくても、相手とコミュニケーションができれば何とかなる。助けてほしいときに「助けて」と言えないことが辛いのだ。異国をひとりで旅した人なら、その心細さを体感したことがあるだろう。

本作では、結局のところ英語を喋れる優しい女性に出会い、彼女とトントン拍子に男女の仲になっていくことで「言語の壁」は解決する。そういった意味では、もうちょっとミス・コミュニケーションが前提とした物語を見たかった気もするが、そういった軸による映画の可能性も感じるような「構造」の作品だったように思う。

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物語について、ほぼ直接言及しない感想になってしまった。

物語のラスト、父娘であるビルとアリソンが同じ景色を見るシーンがある。

「昔とずっと変わらないね」と同意を求めるアリソンに対して(アリソンはこれまでずっと父を見下しており、静かに同意を求めるようなコミュニケーションをしてこなかった)、ビルは「いや、全然違って見える」とこぼす。

戦友のような時間を過ごした父娘でさえ、「その後」における共有財産は全く持てないという結末。せっかく共に暮らせるようになったのに、何という皮肉だろうか。

マルセイユで愛する人たちと擬似家族のように暮らした日々は、ビルが思い描いた「成果」を達成すると同時に、永遠に失われてしまった。人生とはなかなか一筋縄にいかない、じわっと心が痛むラストシーンだった。

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「サスペンススリラー」というジャンルでプロモーションされていたが、「スリラー」という括り方とは違うのではないか。(まあ、そういったスリラー的なシーンも無くはないのだが)

どちらかといえば、トム・マッカーシー監督が過去に撮影した「スポットライト 世紀のスクープ」と同じ系譜。いわゆる骨太の社会派ドラマという感じで、(実質的に)社会から見下されている肉体労働者や犯罪者が、平穏な日常を取り戻すための奮闘や葛藤が描かれた作品のように感じている。それが共存するジョーダン・ピール監督のような作品ももちろんあるが、それと同系統というわけではなく、もうちょっと本質を捉えたPRができたら良かったのでは?と思った。

日本は2022年に映画館公開。早くも今秋にAmazon Prime Videoで見放題配信となったので、ぜひチェックしてみてほしい。

(Amazon Prime Videoで観ました)

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