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「びわ湖毎日マラソンを見て競技者としての価値を考えさせられる」を読んで、仕事における価値を考えさせられた

びわ湖毎日マラソン、凄まじい大会だった。

まずは鈴木健吾さんの日本新記録だ。これまでの大迫傑選手の記録を30秒以上上回る2時間4分56秒。昨年2時間5分台が出たときも驚いたが、1年で更に進化している。特に35km過ぎのラストスパートは圧巻だった。1キロあたり2分50秒台で走り続け、ぐいぐいと2位以下を突き放した。

35km時点では「良い記録が生まれそうですね」くらいだったのが、徐々に「日本新記録も見えてきました」「日本記録を更新しそうです」「2時間4分台で入るかもしれません」「2時間4分台いけますね」という感じで実況・解説者が舌を巻く。

マラソンでは「速い」より「強い」の方が褒め言葉だと言われる。まさに鈴木さんは「強い」走りを体現してみせた。

そして2時間6分台が4人、2時間7分台が10人、サブテン(2時間10分以内)を記録した選手は42人という記録ラッシュにも驚いた。

(なんと2時間8分台の選手が走る中で、鈴木選手の表彰式が行なわれていた。好走していた選手もさぞ驚いたに違いない……)

日本歴代10傑の中で、今回のレースによって半数が入れ替わった。昨年末、福岡国際マラソンで優勝を飾った吉田選手の記録もあっさりと入れ替わる。群雄割拠な男子マラソン、ここ数年でめまぐるしい進化を遂げている。

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陸上ファンは記録ラッシュに浮かれていれば良い。一方で実業団ランナー・近藤秀一さんのnoteは極めて冷静だった。

ここ1〜2年の記録水準の急激な上昇によって、記録の価値がわからなくなってきており、持ち記録が競技者としての価値に直結しなくなってきていると感じる。それは僕だけでなく、おそらく多くの競技者が感じていることだろう。(中略)
ちょっと前のビットコインのように、今は記録水準がインフレしているので、記録の評価が難しくなっている。レースのたびに〇〇歴代最高が塗り替えられるような状況では、その記録がどの程度の価値なのか、値札をつけることはできないだろう
(近藤秀一note「びわ湖毎日マラソンを見て競技者としての価値を考えさせられる」より引用、太字は私)
どうしてこんなことを書くかというと、少なくとも自分は、仕事として走っている以上、競技者としての価値を高めるよう努力すべきだと思っているからだ。で、この先数年は「良い記録を出せば競技者としての価値が高まる」という安直な考えは通用しないと思っているので、自分への戒めを込めて書いている。例えば、僕が10000mで27分台を出したり、マラソンでサブテンをした”だけ”では、競技者としての価値は大して変わらないだろうと思っている。
記録の価値が安定していた最近までは「強いと思う選手をあげてください」と言われたら、あがる選手は大抵良い記録を持っている選手で、記録と競技者の価値がリンクしていたと思う。しかし今は、強いと思われている競技者が必ずしもトップの記録を持っているわけではないし、逆に名前があがらなくても素晴らしい記録を持っている選手はたくさんいる。
(近藤秀一note「びわ湖毎日マラソンを見て競技者としての価値を考えさせられる」より引用、太字は私)

選手の立場からしたら、確かにここ数年の記録ラッシュは手放しで喜べるものではないのだろう。レースでの勝利=価値という説もあるが、MGC以前はたとえレースで優勝してもタイム差によって五輪代表に選ばれないということもあった。駅伝はチームによるものだから、優劣が選手の価値と直結しない。

では、誰が「価値が高い」と言えるのか。近藤さんも答えを保留している。

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翻って、ビジネスパーソンの価値とは何だろうか。

(経営者は除き、従業員として働く「普通の」人々に限定したい)

・年収
・役職
・所属している企業
・プロジェクトの成否
・登壇数
・マネジメント人数
・知名度
・受賞歴
・組織内評価

やや業種に偏りがあるが、ざっと洗い出してみた。

だけど例えば、大企業所属で年収が1,000万円あったとしても、スタートアップに転職したら同様の活躍ができるとは限らない。短期間でプロジェクトを成功に導いた実績があったとしても、次のプロジェクトにおける再現性に直結するとは限らない。

これって現在の特有の課題なのかな?と思ってみたけれど、確かにある程度の勝ちパターンを作りやすかった時代に比べると「価値を測る」ことが難しくなるのだろう。

多種多様なプレイヤーが存在し、上手くいくかどうか予想がつきづらいような不確実性が高い時代だ。コロナウィルスは特別とは言え、グローバルという市場において想定外の事態は常につきまとう。

企業に所属している限り、やりたい仕事(望む仕事)に就けるとは限らない。望まない仕事を振られ、成果が出せずに低評価のレッテルを貼られることだってあるはずだ。だけどをこれを一概に、ビジネスパーソンとしての、仕事における価値として断定するのはあまりに乱暴な気がしてならない。

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更に思考実験を進めてみる。新たな問い。

仕事における価値を正しく測定できたとして、それがどれくらい人生において意味のあることなのだろうか。

仕事における価値がめちゃくちゃ高いならば、たくさんの機会を得られるだろう。

だけどその代償として、家族を犠牲するような働き方だったら?子どもの授業参観にも地域コミュニティの懇親会にも一切関与できなかったら?はな恋の麦のように、好きだったイラストやカルチャーに対して何ら関心を持てなくなる状態になってしまったら?

川内優輝さんのツイートには、上記で挙げたような小賢しい「価値」の在り方は微塵も見られない。

10位という結果を冷静に受け止めながらも、10年越しで2時間7分台を出せたことへの充実感に満ち溢れている。川内さんにとっての大義だったことが窺える。

僕にとっての大義は何か?成し遂げたいことは何か?

そんな問いがぼんやりと浮かびながら、今夜も間もなく、日付が変わろうとしている。こんなnoteの発信も悪くないのかもしれない。(と信じたい)


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