構造に注目する。(映画「300 スリーハンドレッド」を観て)

ジェラルド・バトラーさんが主演を務めた2007年の映画「300 スリーハンドレッド」を観た。監督は、プロデューサーとしても多数の作品に携わっているザック・スナイダーさん。

(毎日更新している「ふつうエッセイ」でも本作に触れています)

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もともと僕は、大量の血が流れたり、人間同士が見境なく殺戮し合うような作品は苦手だ。「300 スリーハンドレッド」はまさに、その典型的な作品。

ただ、フィクションの要素はあるものの、ペルシア戦争は実際に起こったこと。300人の手勢のみで防御線を張ったレオニダス1世の奮闘も、また実際に起こったことである。

何より恐ろしいのは、「お前たちの存在を、歴史上の記録から抹消してやる」という言葉。それは敵国を、民間人もろとも虐殺することに留まらず、その事実すら「なかったことにする」というメッセージ。2020年代は歴史修正主義者たちによる都合の良い解釈が日本や世界各地で行なわれているが、それを予見するようなシーンに背筋が凍った。

たとえ戦力差があろうとも、非服従の道を選んだスパルタ。どんなに綺麗な言葉で取り繕っても、その先にあるのはじわじわとした懐柔のみ。懐柔によって飼い慣らされた一部の人たち以外は、とても苦しい状況を強いられてしまうわけで、時代は違えど、現在も示唆されるような「構造」は散見されるなと感じている。(それは国同士だけでなく、国 対 地域とか、強者 対 弱者とか、そういった様々な対立において、同様の構造にハマってしまっていると個人的には憂う。

だから、この映画をアクションシーン全開の戦記物としてのみ捉えるのは、ややスコープが狭くなる。

作品の中で見られる対立、神秘主義に幻惑されること、ジェンダー、連帯などの「構造」に注目するのが良い。「300 スリーハンドレッド」はそういった意味で、お手本のような設定が仕組まれている。それはベタといえばベタなんだけれど、映像の美しさやバトラーさんの迫真の演技が、細部の粗さを吹き飛ばすような喝采に支えられている。

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ただ、かなりの血が流れる映画なので、苦手な方は無理する必要はありません。「自由を求めるため」とはいえ、スパルタ側の殺戮シーンはかなり残虐性が高いです。こういった「エンターテイメント」もあると認めつつ、フィクションとしての肉弾戦を楽しんでもらえたらと。

(Netflixで観ることができます)

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