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選挙カーに見る現代社会の低俗性

人々が選挙カーの騒音に辟易する時期になった。
今日にいたっては地方選挙のすぐ前日ということで、市街地に鳴り響く騒音にはますます拍車が掛かっている。

拡声器を使って執拗に繰り返される立候補者の"名前"。
これについても考えてみれば奇妙なもので、普通はその地方の議員や長など自身の生活にも関わる重役を選出するにあたって、有権者各位はその政策内容や思想を元に判断するべきであって、「単に名前だけが連呼される」ことには何の論理性も無い。

しかし、そんな一見して非論理的な行為にも一定の効果が見られるからこそこれほどまでに続けられているのだろう。政策や思想といった本質の部分はさておき、大声で連呼さえすれば否が応でも聴衆の無意識に刷り込むことは出来る。

今や世は大航海時代ならぬ大広告時代といえる。街中はもちろん自宅にさえ逃げ場なく氾濫する広告達は、選挙カーと同様、本質的には非常に無価値で虚無の、ただ無意識に対する恫喝的な揺さぶりとして効果を発揮し続ける。

現代社会にみられるその他の事例を取ってみても、やたらと大声で被害を主張する悪人の意見が、周囲の無実の善人らの声さえも押しのけてまかり通ってしまうという現象が、友人関係などの身近な規模から、メディアという大規模にまで渡って私は多く観測している。

創作物の世界に於いても、やたらデカデカと広告されているだけの作品、それもいざ蓋を開けてみればまるで中身の入っていない、単に"商業品"としてハリボテされたようなものが持て囃され熱気を帯び、一方で大声を張り上げるようなことはしない職人達による節度ある作品は見向かれもせず、ただ暗闇の中でだけ静かに輝き、評価もされずに埋もれていくという光景を幾度も見てきた。
良いものが売れる時代などはとっくに終わった。肝心なのはもはや本質ではない。そんな虚無めいた現実を眼前に突きつけられている気がして、肝が冷える思いをしたものだ。

あとは一気に低俗な舞台に移ってしまうが、今やインターネット界の"主人公"にもなりつつあるSNSの世界に於いても、素人目に見ても思慮を重ねて綴られているのがわかる専門的な見解や、見事に本質を突いた発信というものは良くてもせいぜい百か二百くらいの支持しか得られない一方で、明らかに偏った過激な思想や、短絡的な極論、時には単なる暴言と言えるようなものが何千、何万と「いいね」され、拡散される傾向が見られる。

とにかく社会の節々で観測できるこれらの現象は、近隣の迷惑も顧みず自己主張する選挙カーと同様の、"そういうやり方"が現代で非常に有効な環境になってしまっていることの証左にも思える。実体を伴わない絵空事の主張ばかりが人々の意識を引き、支持を得ること。こんなものはディストピアもののフィクションの話に留めておいて欲しいものだが、悲しきかな、「事実は小説よりも奇なり」なのかも知れない。

いま、この記事に目を通されている読者の方も一度くらいはおありなのではないだろうか? 傍若無人な大声が、人や世のことを考えた数多の誠実な声よりも優先されてしまうのを見たことが。そして、この社会全体に対して底知れぬやるせなさを感じてしまったことが。

本質を無視する。ただ声が大きいものが勝つ。低俗化。万が一にもこうした風潮が増長の一途を辿ってしまった先で、未来の子供たち世代は、発育に於いても、成人後の生活に於いても多方面での障害、生き辛さを抱えてしまう末路になることが想像に容易い。現代にも増して…である。
私は非力な…どころか無力同然のひきこもり男性に過ぎないものの、何とかそうならない未来に一票投じる方法を考えている次第だ。

このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)