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empty room

何も形になっていないと言われたことがある。
習い事や出た学校、そういうものが、今の自分に何ひとつ活かされていないということらしい。

至って失礼な話ではある。
人の経験など、誰にもまったく同じように体感することなどできない。
いったいどうやって私の辿った道が無意味だったと評することができるのだろう。
腹立たしさよりも、なんだか唖然としてしまった。

曰く、資格や評価、階級、目に見えるものが残っていないということは、経験としてとてもわかりづらい。
他人に見える形で結果が残っていないことは、評価に値しない経験だと思うようだ。
たしかにその理屈で言うなら、私はきっとからっぽだろう。
ギャートルズ並みに、なんにもないなんにもない、と歌われるべきかもしれない。

もちろん、どこを最終地点とするかはそれぞれ。
誰かが見据えているところが、私の目的地でもない。
得たものは、すべて目に見えるものだろうか。
すべて言葉にできるだろうか。
死ぬまで揺らがないほどのものだろうか。
どんな経験をしても、一から百まで覚えていることなど不可能で。
一時、目に見える形に残せたと思っても、それがどれほど続くものか。

なんだか、からっぽでもいいかとすら思えてくる。
からっぽは、入っては出ていく空間があるということ。
そのうち、何かわずかばかりは残るかもしれない。
余白があることは悪くない。
何が自分を形づくっているか、考える余地も生まれる。

ほんのちいさなことでも学んだと感じたら、後々それは案外大きなものを得ていたのだと気づいたりもする。




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