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私の死生観

 私は考えるという行為が好きだから、よく自分について考える。自分について考えていると、最終的に「死」というものを考え始める。
 「死」について考えることは、「生」を考えるということと同じなのではないか。そう私は思った。

「死」ってなんだろう

 死の定義を調べると、「呼吸と血液循環が完全に停止し、脳の全機能が完全に停止し、蘇生不能な状態に陥り、且つその状態が継続したとき」と出てくる。

 「死」とは一体どういうものなのだろうか。私は「死」を、人の終わりを指すものだと捉えている。これは、良い意味でも悪い意味でもだ。良い意味とは、死を迎えることで己が楽になること、悪い意味とは、自分の意思で死を迎えることができずに、心残りがあるまま亡くなってしまうこととだと私は思っている。

 そう。私が思う幸せは死とは、自分が死にたいと思った時に死ぬというものだ。なぜこのように思うのか、それは過去にも述べたが、自分で自分を殺そうとしたことが何度もあるからだ。そして、今も定期的に希死念慮が高まってくる。

 このように書くと、近頃死を選ぶのではないかと心配されるかも知れない。だが、私はまだ死なない。いや、死ねない。
 それはなぜか。私は、体調不良や痛みを伴うことが嫌いだ。自分を自分で殺すということは、当然この二つが伴う。この二つを克服することができた時、この二つが関係なくなるほど、辛くなった時に私はこの世からいなくなることだろうと、ふと思う。

「生」ってなんだろう

 生の定義を調べると、「生命があり活動ができる状態にある。」と出てくる。

 私はなんのために生きてるのだろうか。それは、死ぬことができないから、ただ生き続けているだけなのである。これをしたいから、この職業になりたいから、そんな綺麗な理由はない。

私の死生観

 死ついて書いた文字数と、生について書いた文字数の差を見て思ったが、私は生に対してあまりこれといった考えがないのかもしれない。いや、ないのだろう。

 私は、死にたい時に死ねれば良いと思っている。だが、せっかく自分で死ぬのならば、綺麗な身体で、綺麗な顔で、少しでもやりたいと思ったことはやってから、死にたい。

 なぜ私がnoteを始めたのかも、私の死生観に関わっているのかもしれない。私が死んだ時に何かこの世に残して死にたいという思いが、根底にある。死ぬことで、星乃澪月という人間は終わりを迎えるが、星乃澪月が生きたという結果は、noteに残り続けるのだ。


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