阿佐ヶ谷に住んでた女の子
会社勤めを始めて間もないころだった。駅前のロータリーでギターを掻き鳴らす売れないミュージシャンが、眩しくて長く見ていられなかった。自分の腹の底の燃えかすみたいなのが疼く。
「こんばんは〜」
高円寺で待ち合わせた彼女は、(はっきりと覚えてないけど)自分で飾り付けたママチャリに跨っていた。着ているのは古着のワンピース。長い髪を結んでいた。
「居酒屋で大丈夫ですか?」
あぁ、ずっとにこにこしていた。それから声が低くて童顔とのちぐはぐ感も印象的だった。
「はい、どこでも」
そう答えた僕を、彼女は高架下の大衆居酒屋に連れていってくれた。
ビールを飲んで、よく笑った。
お互いに。
彼女は高円寺の雑貨屋で絵の個展を開いたり、たまにアコギでゆるいライブをやったりしているらしい。
「花屋さんとカフェでバイトもしてるよ」
と、彼女は笑った。
その笑顔が、少し眩しかった。
頼んだ枝豆が大量に余ってしまう。僕だったら残して帰るけれど、彼女は違った。
「すいません、枝豆持ち帰りたいんですけど」
僕だったらぜったい、店員さんにそんなこと、言えない。
彼女は、僕には言えないことを、言えるような女の子だった。
高円寺駅まで戻る道すがら、ふたりはほろ酔いで、彼女が「また飲もうね」と言ってくる。
試しに手を繋いでみる。
「また飲もう」
僕が言うと、
「よかったらうちくる?」
と、言われた。
彼女は阿佐ヶ谷に住んでいた。
いや、なんか結局阿佐ヶ谷駅からも相当歩くのだ。
夏だった。
僕は彼女の漕ぐ自転車の荷台に乗った。アプリで知り合った子とニケツしたのは、たぶん初。
なんか川沿いを歩いたのも覚えてるな。
ここからは部屋のお話。
彼女の部屋には、彼女のこだわりであふれかえっていた。ちゃぶ台やらカネコアヤノのCDやらアコギやら古い漫画やら古道具やら古着やら。壁や障子にも所狭しとライブのフライヤーやポストカードとかが貼り付けられていた。
彼女が窓を開けて植物たちにやかんで水をあげる。カネコアヤノが流れている。
夏の夜の心地よい風。
オフィスと家との行き来ばかりで、ずっとそんな風を感じてこなかった。
今だったら、路上ミュージシャンも、眩しがらずに見れると思った。
話が盛り上がっているうちに終電が近くなって、ふたりで家を出て駅まで送ってもらう。
手を繋いでいた。
細い路地で僕は彼女にキスをした。舌も入れた。
それから何事もなかったかのように、ふたりとも歩き出してしばらくのところで、
「うち泊まってく?」
彼女の部屋のエアコンは壊れていた。
それなのに僕らは、これから汗をかくようなことをしようとしていた。
後日、僕たちは高円寺のお祭りみたいなのに行った。
よさこいを見ている彼女を見ていた。
「細貝くん楽しい?」
「楽しいよ」
そのあと前とは別の居酒屋に行って、またビールを飲んだ。
楽しく話した。好きかも、って錯覚しそうになるくらい。
これが最後の夜になるとも知らず。
ビールを飲んで、ほろ酔いになって、エアコンの効かない彼女の部屋にしけこむ。
順番にシャワーを浴びて、
いっしょにまた気持ちよくなった。
カネコアヤノが流れる真っ暗なアパートの部屋の夏の夜の心地よい風。
「こんどうちきなよ」
「行きたい〜」
あの夜から少しずつ彼女からの連絡が鈍くなっていった。
彼女の部屋の蒸し暑さと窓を開けたときの風の心地よさが恋しかった。うちにくるとまで約束をしていたのに。
彼女は好きなものに囲まれて、好きな洋服を着て、生きていた。僕とは違って、したくないことはしない。就職して生きることを、彼女は選ばない。僕はそれを選んだ。路上ミュージシャンを眩しいと思うように、彼女のことも少し眩しかった。彼女は居酒屋で枝豆を持ち帰りたいと素直に店員に言える女の子だった。
そして、同じように素直に僕と会うことをやめたのだった。
こんな世の中になってしまったけれど、僕の思い出の中にある阿佐ヶ谷の彼女の部屋には、カネコアヤノの音楽と夏の夜の心地いい風が、今でも流れている。
いつもありがとうございます。