見出し画像

育児と介護 現代の日本における奴隷制度

「ある奴隷少女に起こった出来事」ハリエット・アン・ジェイコブズ著

「部屋を整理していたら出てきた」
「面白そうですね、貸してください」
社交辞令に近いやり取りで借りた本。
読む暇のないまま2週間ほどが過ぎ、
さすがに返却しなければと、
子供たちが起きてくる前、まだ薄暗い早朝や、
父が入浴の介助をされている間の僅かな自由時間を使い読みました。
どんどんと引きずり込まれていく心。
読み終わると、私の中には黒いものがへばりつき、
日常に戻ろうとする私の感情を酷く乱しました。

本を持つ私の手首に、赤い血が滴ってくる

要約としては、
黒人奴隷として産まれた少女が、自由となるためにもがき、
やがて自由になるという実話エッセイ。

こう書くと単純で退屈な物語のようにも見えますが、
中身は目をつむりたくなるような生々しい暴力的な描写と共に描かれる、
・いずれ奴隷となる子供たちを思う母の愛
・奴隷として産まれた女にとっての性
・人間として自尊心をもって生きる限界
・身分制度という作られた制度により崩壊していく人の心の弱さ

何度も胸が締め付けられ、
そして主人公の尋常でない芯の強さに感服しました。

奴隷の「女」は所有者のもの

奴隷として産まれた少女の「女」である部分は、
所有者の男性のものになります。
本人にその権利は帰属しません。
自分の娘が醜く生まれることを祈ることが、母のせめてもの愛です。
15歳頃になれば性的対象とみなされ、
所有者からの刷り込みと支配が始まります

そして同時に始まる所有者の夫人からの嫉妬、陰湿ないじめ、
命を奪われることに怯え削り取られていく心。
産まれた子は母の身分を継承します。
つまり、所有者は所有者は自らの欲求を満たすと同時に、
新たなる労働力、もしくはいずれ金銭に変えることのできる財産を手にする
ことができる。
奴隷の母は子が生まれるたびに絶望します。
それが女の子であればその悲しみは一層深い。

いっそこのまま死んでしまえば

母は子供たちが病気で弱ると、
所有者に痛めつけられると、
いっそこのまま死んでほしいとすら願います。
奴隷として働かせ始められる前の幼いうちに死んでしまえば、
自分が奴隷であることを知る前に死んでしまえば、
自分と同じ苦しみを味わうことはない。
肉体はここにありながらその権利は永久に自分のものにはならない。
抜け出せない日常の肉体的な苦痛よりも、
日々や将来を考えた時の精神的苦痛により
自尊心を失っていく、人間として生きることを諦めていく
ことが何よりつらい
のです。
そして人間が作った「奴隷制度」というルールの中で、
崩壊していく人間たち。
奴隷制度が崩壊させるのは奴隷側だとお思いですか?
違う。一番の犠牲者は白人側だと私は思います。
奴隷制度により白人は自らの心を失い、嫉妬と欲にまみれ
自らをコントロールすることのできない生き物へと変化
しました。
狂っていく自分たちを止めることができない。
それを冷静に憐れむ心を持っていた主人公と、
それを植え付けた主人公の祖母の芯の(真の)強さがこの本を生み、
160年の時を超えてベストセラーとなり、
今、時も距離も遠く離れた私の心にべっとりとへばりついています。

現代の日本における奴隷制度

私は日常的に鞭で打たれることはありません。
同意なく肉体を犯されることも、
命を奪われる恐怖に怯えることもありません。
ただ、この奴隷制度が私に連想させたのは、
日々父や娘の要求に従い、
十分な睡眠や休息を与えられずに、
疲れた体をソファーに横たえる自分の姿
でした。
主人公の叔母は、所有者の子の乳母を務めるため、
所有者の妻の部屋の入口の床に眠り、やがて体を壊し、
弱く生まれた自らの子供2人をなくした上、早期に他界します。
私は何よりも、自分の置かれた環境により、
自分が自尊心を手放しかけていることに気が付いて怯えました。
自分が何をしたいのかがわからない。
小さいころからきょうだいに障害を持つものを抱えて生きてきたせいもあるかもしれません。
私の望みはすべて吸収され、
手の届かない天の星になる

そのことに慣れすぎて、
私は望みを望む力を既に失いかけていたのです。
自分が何をしたいのか、それを失った時、
奴隷は本当の意味で奴隷になります。

主人公ジェイコブズは
「自分は自由人になる、子供たちを自由人にする」
という目標を最後まで失わなかった。
彼女は完全な奴隷とならず、そして遂に自由を手に入れたのです。

私の所有者は誰?

では、仮に私が奴隷的で立場であるとしたとき、
私の所有者は誰に当たるのでしょうか。
私は誰のために、自らを犠牲にし、働いているのでしょうか。
もちろん、父も娘も私の家族です。
私が愛をもって自ら世話をしているのです。
しかし、限度というものがあります。
限度を超えて労働を強いている私の所有者。
それは私は「国」だと思っています。

娘である限り、母親である限り、
私はこの国の国民を育て、病人の面倒を見る
奴隷的立場にあるように感じます。
国(の中心となる政治家たち)はそういった負担を一部の人間に押し付け、
自分たちは悠々と食事をしている。
私たちが床で眠る間、
彼らは背の高い椅子に座り、テーブルにつき、
胃がもたれそうな塊をナイフとフォークで切り分けながら口に運んでいる、
そのように見えて仕方ないのです。
奴隷のおかれている状況など、知ったことではない。
奴隷は奴隷として産まれ、奴隷として生きていく他ないのでしょうか。
私は望みを捨てたくない。
だからこうしてまた睡眠時間を削り、自分の身を追い込んででも、
未来のために社会を変えようともがいています。
私が望んでいることは、私自身が自由人となることではなく、
奴隷制度の廃止です。

私は自分の娘たちを、私と同じように奴隷にしたくはない。

新しい未来を、作りませんか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?