現実の終わり、死、夢の始まり

 夢の中で充足して生きていた自分の姿を現実の側から見てしまうと、どうしても羨ましくなってしまう。どんなに荒唐無稽なことが起きても夢の中の秩序は崩れることはない。その守られたカオスのなかで楽しく世界を謳歌する自分が妬ましい。夢の中の登場人物にとって、夢は現実でしかない。夢には脈絡がないという診断は、常に現実にいる覚醒した人間によってなされる。夢には夢の脈絡がある。大海を泳ぐ魚がいま自分が泳いでいるのが海であることを知らないように、また、夏に地上に出て夏に死ぬセミが夏のことを知らないように、夢の住人はいま自分がいる場所が夢の中であることを知らない。
 夢の中で「それ」を現実として無意識のうちにとらえていた私の視界は、ある一つのタイミングで突如として切り替わり、自分の部屋を見ることになる。これは夢から現実に帰ってきたというよりも、あるひとつの現実からもうひとつの現実へと強制的に移動させられたと言ったほうが直感にかなう。現実2に押し戻された私はまだ回らない頭で現実1の手触りを思い出す。現実1の記憶は時間が経つと色あせて朽ちていき、最終的には完全に忘れてしまって無かったことになる。ひとつの現実が閉ざされ、死ぬ。それでも、たまに忘れられない夢というのがあって、数年たっても脳の片隅に収納されたままになっていることがある。ひとつの現実としての「夢」がいくつか寄り集まって、同じフォルダの中でいろいろな世界がひしめいている。そういえば、最近はなくなったが、前見た夢と同じ、あるいは似たような世界に飛ばされることがたまにあって、夢の中でもデジャブを感じるんだと妙に感心したことがあった。



 夢の中で死んだことがない。もしかすると、死んだことはあるのだけれど、その場合夢での記憶が帳消しになっているのかもしれない。もしそうなら、夢を見なかった日というのは、実は夢の中で死んだ日なのかもしれない。「死んだことがある」という表現を文字通りの意味で人間が使うことはできない。なぜなら、死んだ人間はもはや喋ることができないからだ。死の後ろ側には、何もない。暗闇が広がっているわけでもない。本当に何もないのだ。背後に何もないもの、それが死の唯一絶対の条件である。ひょっとしたら、この法則は夢の中でも成り立っていて、「何もない」ことを経験することは原理的に不可能だから、夢の中で死ぬと、夢を見なかったことになるんだろうか。
 考え方を変えれば、死は永遠の夢の始まりかもしれない。死のことを「永眠」というが、やっぱり死ぬ瞬間と眠りに落ちる瞬間は似ている。眠りに落ちる瞬間が、現実からいつか終わる夢へとジャンプする瞬間であれば、死ぬ瞬間は、現実からいつまでも終わらない夢へとジャンプする瞬間だといえるかもしれない。もしくは、夢にジャンプしようとしたのだけれども足を滑らせて落っこちてしまい、どこまでも深いところへ落下しているのかもしれない。底のない奈落への永遠の落下。それが死の正体かもしれない。
 だんだん眠たくなってきた。ずっと起きていると、やおら睡魔が忍び寄ってきて、私から思考力や判断力を少しずつ削り取っていく。まるで夢の世界へ旅立つための支度をしているかのように。こんなことを言うと、「おれたちには思考力も判断力もないのか」と夢の住人から怒られそうだが、そう感じられるのだから仕方がない。眠りに落ちたことは、眠りに落ちた瞬間にはわからない。はっと気がつくと、時計の針がなぜか30分くらい進んでいる。それに頭もなぜだかぼーっとする。そうか、私は……。でも、死はそうはいかない。死んだことは、死んだ瞬間にはわからないし、死んだ後もわからない。「わかる」主体がそもそも死んでいて、何もできないからだ。死んだことがないのでわからないが、死の直前は眠たくなるのだろうか。もしそうなら、死の瞬間と眠りに落ちる瞬間はたいして変わらないだろう。訪れるのが睡魔か死神かだけの違いだ。今回も睡魔かと思って受け入れたら、実は死神でした、死、なんてこともあるんだろう。どんな死に方をしたとしても、死人に口はないから、死神は文句をつけられることがない。理想の職業かもしれない。
 これから私は眠る。夢を見るかもしれないし、見ないかもしれない。もしかすると、二度と起きることがないかもしれない。こればっかりは博打で、死にたくないと思っていても案外あっさり人間は逝ってしまうものだ。死を恐れるのは生き物として当たり前のことだが、そんなに恐れすぎなくてもいいんじゃないか、とも思う。死のことは死んでから考えればいいと誰かが言っていたが、そんな詭弁に頼らなくとも、死を長い長い夢の始まりとしてとらえれば、少しは気が楽になるかもしれない。

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