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「僕はいつだって美しい服を着ていたい」 装いと自尊心、外見が先か中身が先か?

本当の僕は内向的で、
パーティなんか好きじゃない

そう、そのひとは確かに(チェンバロみたいな)少し細いけれど柔らかな声でそう語り始めた。

「もともと僕の髪は黒いんだ。けれど、モーツァルトを演るために髪を金髪に染めた。そしたら不思議なことに、夜になると誰かを誘って外に連れ出したくなるんだ。僕は本当は内向的で、パーティーなんか好きじゃないのに」

映画『アマデウス』でモーツァルトを演じたトム・ハルス。『アマデウス ディレクターズカット版』の特典映像で「外見と性格のふしぎな相関関係」を語っている。

映画『アマデウス』より

僕はいつだって美しい服を着ていたい。

さてこれが、実際のモーツァルトも外見で気分が左右される性格だった。6歳から人生の3分の1を(特に前半)演奏旅行に費やしたモーツァルト。今と違って旅の道程は厳しく危険。当然ながら道など舗装されておらず、外は砂埃および糞尿まみれだったに違いない。けれども各地のVIPの御前で演奏する時だけは、それはそれは美しい立派な服で人前に立つ。彼は幼心にそんな自分が誇らしかった。

思春期になってからもモーツァルトは、ゴージャスでファビュラスな服を纏ったゴキゲン麗しき日は、郷里の田舎町で待つ姉に、まるでインスタグラムに「#今日のコーデ」とタグ付けしてアップするように、服の色やディテールの詳細を書き送っている。

しかし大人になり求職活動をするようになると、今度はそれを180度転換するようにと父親に言い聞かされる。父にしてみれば、求職中の身「らしさ」をアピールするようにという意図だったのだろう。しかし息子モーツァルトはそれを(かなり憤慨しながら)受け止めた。

ところで、白状いたしますが、この前の手紙に、お父さんが「ひどい身なりをして歩かなければならない」とあったのを読んだとき、
ぼくはとても驚き、涙が出て来ました。 (1778.3.7 マンハイム)

『モーツァルトの手紙 その生涯とロマン(上)』柴田治三郎 訳編

外見が先か?
気持ちが先か?
何もモーツァルトじゃなくても、
意外とあなどれない大きな問題だ。

ちなみに私にとっての「ひどい身なり」
それは、就活のリクルートスーツだった。
私はアレを着るのが嫌で、
就職活動をしていない。

制服の場合はどうか?

先日、エリザベス女王の国葬の中継を見ていて、改めて英国の制服形式美・制服文化の美しさには感嘆しっぱなしだった。参列者の中でも、ひときわ目を引いたのは、緋色の制服を着た「高齢者の一団」だ。彼らの中には車椅子の方もいる。しかし堂々とした彼らの佇まいは、このような喪に服す場にあっても、素直に敬服させられた。

彼らは「Chelsea Pensioner」といわれ、ロンドンのチェルシーにある英国陸軍退役者のための介護施設入居者だ。この施設は1682年、チャールズ2世によって設立された。そしてこの服は、本当に彼らの制服なのである。見よ、この誇り高きいでたちを。全くもって惚れ惚れさせられる。


人は意外に服装に左右される。特に自己イメージだ。時々議論になる、服にまつわるトピック。「似合う服 vs 好きな服」「機能的な服 vs 我慢してでも着たいけど疲れる服」とか。それだけではない。特に制服に関しては「背筋を伸ばしてくれる服」と逆に「自尊心を失わせる服」がある。当たり前だが、後者はできるだけ遠ざけなければいけない。逆に、誰かに決まった服を着てもらう時は、自尊心を高める服を選んだ方がいい。服装ひとつでコントロールできることは多いのだ。

ということは、自尊心をあえて低めることだってできるということだ。心理的操作によって自己イメージを弱らせ「自尊心を失わせる服」というのは存在する。例えば外国の(いかにもな)囚人服だ。ある研究では、横縞(ボーダー)は心理的にリラックスさせ、攻撃性も弱める効果があるという。逆に縦ストライプは人を覚醒、緊張させ攻撃性を高める。ビジネスマンのシャツにストライプはあってもボーダーがないのは、こういう心理的効果があるのだ。

そういえば、ひと昔前の公立中学の制服はなぜあんなに「ダサい」のかと、ずっと思っていた。今は中学の制服も改定されて徐々にかっこよくなっているが。多感な時期とはいえ、なるべく「魅力を覆い隠す」ことが目的のひとつでもあったのかもしれない。そこには少なからず、中坊なんか絶対に魅力的に見せてはいけないという、大人たちの意固地なまでの悪意を感じる。(こういうのが、ブラック校則に繋がっていくのだろう)

これは企業の制服にもいえることだ。つい先日、友人とカフェで雑談している時に、彼女が工場勤務だった頃に着ていた「作業服」の話題になり驚いた。女子はベビーピンク、男子はミント色の、まるで幼稚園の体操着のような色の指定作業服だったという。友人は、仕事することよりこの制服を着ることが嫌だったらしい。「自分で自分がわからなくなる」「これを着ている自分がいやだ」つまり、先のモーツァルトで言えば「自分が惨めに思える」のだろう。

日本の制服・作業服には、デザインセンス以前になにかしらの「自己肯定感の低下」を促す負の作用を感じざるを得ない。社員は、やる気は出ない(から、おそらく効率も上がらない)かわりに「逃げる気力もなくなって働き続ける」というわけだ。

他者を「おもてなす」前にやるべきこと。

そんな制服の効果に関しては、このエピソードが一番好きだ。ハーバードビジネススクールで教材になったほどの「服と自尊心」にまつわるJR東日本の関連会社の取組みである。

私は新潟生まれなので上越新幹線ユーザーなのだが、新幹線の中を掃除してくれる清掃員さんたちの制服がゆるくて楽しいものに変わり「おお?」と思ったのは、もうけっこう前のことだ。彼らはJR東日本の新幹線で清掃業務を行う「JR東日本テクノハートTESSEI 」の清掃員さんだ。もともと服が好きな私は「いいぞ、もっとやれ」と応援する気持ちになったものだ。
しかし何故、こうなったのか?

きっかけは、清掃員が働く姿を見たある母親が、スタッフに聞こえよがしに子供にこう言ったことだ。

「ほら、ちゃんと勉強しないと『ああいう風』になるのよ」

掃除をしていることが「ああいう風」なのか。
当時の経営企画部長の矢部さんは、制服をもっと楽しいものに変え、何よりも清掃員さんたちの自己肯定感を高めるべく制服を楽しいものにした。季節の花をつけたり、アロハを着たり。その結果、自己肯定感が上がり、自分がここで働いていることに誇りを持ち始めたスタッフに、乗客の見方もガラリと変わった。

詳しくは、この記事で!
日本の「清掃会社」がハーバードビジネススクールの教材になるまでhttps://careercompass.doda-x.jp/article/724/


企業側としては「おもてなし」の一環として始めたことだったのだろう。しかし、実際にサービス業に携わってきた私も強く感じるのだが、他者を「おもてなす」前に、自分を粗末にしては、結局のところ「いいおもてなし」はできないのだ。杜撰な、いじけた、やらされている感ありありの「おもてなし」になってしまうのだ。サービス業だけじゃない。人に親切にしたり、家族がいい関係になるには、まず自分が、自分に納得していなければいけない。そしてその役割を「服」「髪型」などの「装い」が大きな要因になっているということは、特に日本では、もっと重要視した方がいいんじゃないかと思う。

ところで、わたくし事ですが、

最近、髪を明るい感じに染めたんですよ。
日常かなり黒服率高いので、その上黒髪にしてると単純に「重い」イメージにしかならなく、ずっと何色かには染めていた。さらに、私は普通にしていると「不愛想」に見えるらしく、昔はよく「なんか怒ってるの?」とか言われていた。なによりも、もともと黒い髪の私としては明るい髪色に憧れがある。

なのに、ここ数年ずっと黒髪だったのだ。漆黒の髪がファッション的にツボだとかそういうわけでは全然なく!もういい加減に、落ち着かないといけないかなと自発的に(勝手に)諦めの境地に至ろうとしていた。

「でもあの、このあいだ鏡にちらっと映る黒い髪の自分を見るたびに、小さくイラっとしていることにやっと気づいて。何だろう、部屋の床に片づけてないダンボールがあって、それを何年も避けながら暮らしてきた、みたいな感じかな。日々のちょっとした無意識のストレスっていうか。最近はなるべく鏡を見ないように避けてたなって。これじゃいけないと思って」

初めて会ったサロンのお兄さんは、
妙にウケながらも頷いてくれた。
「じゃ、やっちゃいましょ」

ほんのり茶色になった髪。
もっと人に話しかけたくなった。
もっともっと誰かに会いたくなった。

だからこれを書いた。

(おわり)


越水玲衣/Koshimizu Rei
書く人 兼 勤め人
エッセイ|コラム|小説|脚本|批評
16歳で県の高校生小説賞、集英社『ロードショー』シネマエッセイ受賞。以来主宰していた演劇ユニットや市民劇の脚本、エッセイ寄稿など「好きな世界を文章で表現する」活動をしている。自分の中ではブレない活動をしているつもりだが、それでも「やっぱり何者なのかよくわからないし、次に何をするかもわからない人」と思われている。元市役所職員。現在大学職員。哲学卒。バレエ経験有11年。モーツァルトと芸術語り、夜の灯りが好き。

募集)こんなふうな、時事エッセイ書きます。
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