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朝を待つ

 あなたはずっと、朝を待っていたのかもしれない。

 朝待ち宵。
 透けていくその言葉を心の中で反芻しながら、遠くの空に生まれ行く朝焼けを見ていた。
 施設のバルコニーで、同じベンチに腰掛けるあなたを見やると、伸ばしっぱなしの髪が無風の中で微かに揺れる。それは東雲の空に色彩を乗せていく絵筆のように見えて、すこし哀しかった。こんな中でもあなたの髪は白いままなのだな、とひとり、心の中でつぶやく。

 初めて会った時から、彼の髪は白かった。なにが原因で、いつからそうなったのかは知らないけれど、ロマンスグレーというにはやぼったくて、銀髪というには頼りない、かよわくて素朴なその色が、私は好きだと思った。

 毛束をつまむと、先だけが朝焼けの光に染まって黄金色に艶めく。その色合いはなんだか、遺骨のように思えた。

「骨色」

 そう言ってみると、あなたは私を見て、いつも通りに目を細めて、笑った。ゆっくりと下げられていく目尻、上がる口角。相対的な動きをしているはずの二つの部品は、なぜだか同じ儚さを持っているように思えた。私を見つめる瞳の優しさに、いつまでも囚われていたい。
 あなたを見返しながらとろとろとそんな気持ちでいると、今度は本当に風が吹いて、あなたの髪を靡かせた。さらさらと一本一本が、空の色に溶けていく。その光景が私には、あなたが自分の色を削り取って世界に分け与えているように見えた。あなたは優しすぎるから、そうして世界から少しずつ遠ざかっていく。私はつなぎ止めたくて、思わずつまんでいた毛束をぐいっと引っ張った。
 
「いたっ」

 小さく声が聞こえて、あなたがゆっくりと頭をさする。離した手の中には数本の白い毛があった。ごめんなさい、とっさに言おうとした時。あなたはまた静かに笑った。謝る隙を与えてくれないくらい早く、いいよと無言で訴えかける微笑みで。これで弱弱しく痛がってくれていたなら、どんなによかっただろうか。でもきっとあなたは、そんな姿を故意には見せやしないのだ。


 私たちは同じ児童養護施設で育った。私がこの児童養護施設に入ったのは、7歳の時。育児放棄で2日放置された後のことだった。それ以前から環境はすさんでいたらしいけれど、すぐ忘れてしまう質だからよく覚えていない。つらい目に遭ってもたちまち消えてしまうから、ほんとうに都合のいい性格だと思う。

 あなたはそれよりずっと前から施設に入っていて、その時は私より二つ年上だから9歳。小学生らしからぬ手際で彼は新入りの私にトイレの場所やら洗面所やお風呂場でのルールやら懇切丁寧に教えてくれた。
 その頃からずっとあなたの髪は白かったけれど、それよりも私が気になったのは、彼がいつも笑顔でいたことだった。こういう場所って多少なりとも傷を抱えて笑えない子ばかりかと思っていたのに、彼はどんな時も笑顔を絶やさなかった。むしろ彼がいると、空気が明るい方向に向かってきらきらとひかり輝いているように見えた。まるで不幸なんて背負っていない、普通の子どものように。


 その理由をほんの出来心で訊いてみたことがある。私たちは施設の運動場の片隅にあるブランコを漕ぎながら、中央でドッジボールをしている他の子たちを眺めていた。

「ねぇ」

 大きくブランコを漕いで、近づいたり遠退いたりして揺れ動く快晴の空を眺めながら、私はつぶやいた。すると、あなたはしっかりとブランコを止めて、「うん?」と優しい声で私の方を振り向く。

「どうしていつも笑ってるの?」

 ギーコ、ギーコ、金属の擦れ合う音に合わせて、世界が一面の青い空から木々、建物、地面、私たちの住む世界に切り変わる。世界の往復を繰り返しているうちに、やがて金属の擦れ合う音しか聞こえなくなったことに気づく。あなたを見ると、視線を地面に彷徨わせて困ったように笑っていた。

「……どうしてって、言われても……」

 戸惑いを含んだ声色が小さく聞こえる。私はなおもブランコを漕ぎ続けているので、その張りついたような笑顔がチェーン越しにゆらゆらと通り過ぎる。

「楽しいから?」
「……そういうときも、あるかな?」

 あなたは少し首を傾げてつぶやいた。それから私から顔を逸らすと、砂を弄ぶように軽く地面を蹴って、小さくブランコを揺らす。それでもあなたの顔は微笑んだままで、私は思わずブランコを止めた。改めて、彼をまっすぐに見つめて言う。

「そうじゃないときも笑ってるの?」

 わあっとドッジボールをしている方から一度、歓声が聞こえた。あなたはそれを、風の声を聴くように目を伏せて、聞いていたように見えた。そして次の瞬間、笑顔の明度を強くして私に向き直る。

「僕が楽しいかどうかは関係ないんだ。笑ってた方がみんな嬉しいでしょ?」

 その時、青空を背景に笑ったあなたの顔は青白く見えて、髪はさながら空に浮かぶ雲のように純粋な白さに溢れていた。風に吹かれればきっと、あっけなく青に飲まれて消え失せてしまいそうにも、見えなくはなかった。他の子たちの笑い声がひそやかに耳に届く。こんなこと言ったら変に思われるから、他の人には内緒ね、薄い唇に人差し指を押し当てながら、それでもあなたは笑っていた。

 それからだった。彼の笑顔を見るたびに、うれしいのと同時に淋しい感情がうっすらと膜を張るようになったのは。あなたはいわゆる優等生タイプで、大人や上の子には従順で、下の子の世話は率先してやっていた。そうしたことをそつなくこなすことであなたは完璧さを隙のないものにして、やっぱりいつも笑っていた。でもきっと彼にもかよわい心があって、それをひた隠しにするように笑っているんだ。そう思ったら、なんだか哀しくなって、あなたのことがいとおしくなった。

 
 それから私があなたになつくのに時間はかからなかった。今まで人に愛されなかった反動なのか、私は彼に甘えつくした。それを優しく受け入れてくれる彼にほだされて、いつのまにかほんとうの意味で彼を好きになっていたのは、当たり前なのかもしれない。

 一度だってあなたは、誰かを頼りにしなかった。寄り掛かられることは多くても、寄り掛かることは絶対にしない、つよい人だった。でもその笑顔の細部は、どうしても淋しさを連想させた。全体的に見ればそれは、安心感を与えるものなのかもしれない。けれど、私にはどうしてもあなたが笑う度、壊れていってしまうんじゃないかと、ふと思ってしまう時があった。

 できれば、与えられたぬくもりをあなたにかえしてあげたい─その髪の色のように、内に秘めたかよわい心を包み込んで慰めてあげたい、と心の中で何度も願った。でも決して隙を見せないあなたを前にすると願いは祈りのようなもので、なかなか叶いはしなかった。



 どこかで鳥の声がして、目の端に小さな影が飛んでいくのが見えた。地平線から頭を出した朝日は、先ほどよりもいくぶんか空の色を明るく染めている。赤みを帯びた橙色が鮮やかに広がって、そのせいか空を行き交う小さな影もくっきりと見受けられるようになった。
 スズメだろうか、ハクセキレイだろうか。そんなことを頭の隅で考えながら確認することもしないで、朝日を見つめるあなたの横顔を見ていた。その顔は薄く微笑んでいるようにも、ただ単に日の光が眩しくて目を細めているようにも見える。色白の肌に真正面から当たる光が、彼の目元や鼻筋に色濃く影をつくる。

 くしゅん、私が小さくくしゃみをすると、あなたの微笑みに呆れた色が加わって、やっぱり微笑んでいたのだとひそかに思う。少しだけ男の子らしく骨ばった指が、優しい手つきで私のコートの襟に触れた。そのまま丁寧に首筋を覆われる。そして、自分が膝に掛けていたブランケットを私の肩に羽織らせてくれた。外に出る前にあなたが持ってきてくれたそれは、あなたの体温でまだ温かい。あなたのぬくもりをすぐには逃がしたくなくて、私はぎゅっとブランケットの端を胸元に引き寄せた。

「寒いって言っただろ?」

 素朴で甘い、ミルクのような穏やかな声であなたが言う。言い聞かせるようなその言葉は全然お説教じみていなくて、少し笑ってしまいそうになる。

「こういうことも、僕がいなくなったらちゃんと自分でやらなきゃだめだよ?」

 私の体がすっぽりと収まるようにブランケットの裾を整えながら、幼い子に諭すようにあなたは優しく語りかける。その言葉を聞いた途端に、哀しみが込み上げてきた。私に目線を合わせようと首を傾げたあなたの、半分は光に満たされて、半分は影に覆われた瞳が覗きこんでくる。窮屈そうに屈んだ身体は、出会った頃とは見違えるほど頼もしく大きくなっていた。少年とは呼べないくらいには。

 あなたはもう、18歳になった。それは施設に入れる最長年齢を迎えたことを意味していて、明後日の3月1日、あなたは高校卒業と同時にこの施設を出ていく。

 私が黙ったままでいるので、彼は観念したように小さく笑い声をこぼして、心配だなぁ、とつぶやいた。吐息が白い靄になって、あっけなく消えていく。そうしてなにかに想いを馳せるようにして、また朝日に目を向ける。
 
 あなたはしっかりしていて大人びた人だから、もうすぐここを出ていくことになっても、誰もなんの心配も抱かなかった。私もあなたがいなくなったら自分の方が大丈夫じゃないな、なんて思いながら彼の心配は一ミリもしていなかった。

 風がそよいで、あなたの前髪が広い額をさらすように滑る。細い目をさらに細めた表情は心地好さそうな、まるではらはらとあなたの身体がほどけて散って、世界と一体化してしまいそうな儚さを湛えていた。

「雪人」

 とっさにあなたの名前を読んで、手の甲に触れる。あなたの手が、ちゃんとある。固い骨の感触、形を確かめるようになぞって、きゅっと握った。

「大丈夫だよ」

 そう言って、被さった私の手のひらのなかであなたは手を翻す。もう片方の手が重なって、握り返された手にすっぽりと包み込まれた。あなたの温度が少しずつ、私のものになっていく。そのせいで、あなたの体温は失われていくのに。

 大丈夫。あなたが口にする言葉で唯一、信じられないことばだった。穏やかに浮かべた笑みが、大丈夫だよ、と私に向けられる。あなたは平気なふりをするけれど、きっと大丈夫じゃない。それを、私は知っていた。


 今から三時間前の真夜中、私ははたと目が覚めて、水を飲みに食堂に向かった。誰も起こさないようにとひたひたと廊下を歩いて行くと、目的の場所にはあなたがいた。不眠症の私に比べて、規則正しい生活習慣のある彼がこんな時間に起きているなんて、とっても珍しいことだった。

 電気も点けずにあなたは食卓の椅子に腰掛けて、うずくまるようにテーブルにもたれかかっていた。いつもは凛とした背中が、こんなにしなびているのを見るのは初めてじゃないだろうか。心の中で驚きつつ、でも新しい一面を知ってしまったことがうれしくて、ついあなたの姿を黙って観察した。
 月明かりが薄いシャツの表面に背骨のかたちを綺麗に写し出す。がたがたと浮かび上がるそれは、無理に塞いだ傷痕みたいに見えた。肩越しには髪の色が人魂みたいに青白く浮かび上がっている。
 そろそろと声をかけようとしたとき、ふいに重く冷たい空気が身体を這った気がした。二月とはいえまだまだ寒いこの季節なので当たり前のような気もしたけれど、それとは違うなにか深層心理めいたものを感じたのだ。彼の周りを覆う闇が流動して濃くなったり、薄くなったりする。それを見た私は、動けなくなった。それはほんの数分にもみたない時間だったのだろうけれど、私にはとても、とても長い時間あなたを見つめていたように感じた。

 あれだけあなたが寄りかかれるくらい抱き締めて、慰めてあげたいと思っていたのに、いざとなるとなにもできはしなかった。ただしなびた背中に、のしかかるなにかに衝撃を受けて戸惑うばかりで、ほんとうになにもできなかった。彼が気づいて「また眠れなくなった?」といつも通りの笑顔で言ってくれるまで、私はぼうっと突っ立っていた。

「ホットミルクをつくろうか」

 そう言って立ち上がりかけた彼のシャツの裾をつまんで、やっと出てきた言葉は「外に行きたい」だった。どこまでも私は、ひとりよがりなことしか言えない、最低な人間だった。



 私たちの頭上の景色は、優しい色に変わりつつあった。裾は桜の花びらのような淡い桃色に、深かった夜の青はさざ波のように上空へ向かって水色に近づこうとしている。こうして朝日を眺めている間も、あなたは私の手を握って、微笑んでくれていた。

「手袋も持ってくればよかったね」

 そう言って、いっとう大事なものを包むように私の手をあたためてくれる。でもかわりに彼の鼻が赤くなっていて、それでも鼻を啜ったりしないのは、きっと私に心配をかけまいとしてくれているからだとわかっていた。寒いだろうに、辛いだろうに、あなたは私の前だから、笑ってくれている。

─無理に笑わなくていいよ

 そう一言言えれば済む話なのに、その言葉はなぜだか喉の奥につっかえて出てきてはくれなかった。

 あの時、あなたにまとわりつく闇ごとまとめて、抱き締めてあげられればよかったのだろうか。そうしたらあなたは縋って泣いてくれただろうか。無理をさせずにいられたのかな。

 あなたが駄目になるくらい、上手くあなたを愛せたらいいのに。でも正しい愛し方なんて知らない私は、そんなことも上手にできない。

 もどかしさを抱えながら、私はただあなたの両手に包まれていた。この手をほどいて、今度はあなたの手を包み込んであたため返してあげることもできるのに、私はそれを実行することができない。無条件に与えられるぬくもりが優しすぎて、自分の臆病さに涙が出そうになった。後ろめたさに彼を見ることができなくなって、思わず俯いてしまう。

「ひかり」

 そのとき、あなたが私の名前を呼んだ。ひらがなにすると角がなくなる自分の名前が、ほんとうにやわらかくなって、心地好く耳に届く。

「ありがとう」

 続けて放たれた言葉に思わず顔を上げる。あなたはまた、目を細めて朝日を見つめていた。慈愛に満ちた眼差しが光を含んで、きらきらと輝く。

「夜明けは、こんなに綺麗だったんだね」

 息を孕ませた声が、感慨深げに響く。彼の視線の先を追うと、朝日はもうまるい姿をしていて、そこから四方に光の襞を伸ばしていた。もたらされた光が雲の影さえもゆるやかな青に染めて、美しく世界を織り成していく。隣から、ふぅと小さく息を吐く音が聞こえて、あなたはぽつぽつと言葉を紡ぎ出した。

「僕は、闇の中から生まれてきた子のように扱われるのが嫌だったんだ。そういうくくりの生活に慣れてしまうことにもね」

 今まで悪口も弱音も吐くのを聞いたことがないあなたから、そんな台詞が出てきたことに驚く。独白のようにも聞こえるその声は、やっぱり穏やかでどこまでも、永遠に優しかった。

「だから、嬉しいんだ。やっと、光の中で生きていける」

 瞳の中で、朝日の丸い光が流動する。白い髪が、黄金の光と戯れるようにさわさわと揺れる。もちろん、不安もない訳じゃないけどね、おどけたように溢して、あなたは静かに口角をあげた。

 私たちは闇の中から生まれてきた子。もしかしたら、それを撥ねのけるようにあなたは生きていたかったのかもしれなかった。

 朝陽がもうすぐ、世界中を明るく染める。光のなかであなたは、生きていく。いつものように笑った顔が、心なしか明るく見えた。ずっとずっと、待っていたんだものね。夜風の余韻があなたの髪を最後に揺らす。透き通る白。そこに残った少しの闇をほどくように、陽のひかりがやわらかく、あなたに降り注いだ。

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