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イデアの考察 断片 徳について 本多裕樹 記

イデアの考察 断片  本多裕樹 記

3、徳について

 さて、徳について語っていきましょう。徳というと「アテレー」とも言う。この徳というのは人から出る光でありオーラであります。この光は人間の尊厳をあらわす立派な生き方が、人この存在は神の証明になります。精神の光と言ってもいいし存在の光という。徳は人間が神の子であることの実証であり可能性の表現です。精神の高さが徳の光を輝かせるのであります。そんな徳でありますが、このような神のように生きれないと考える人類もあると思います。どのように神のごとく生きれるかと悩みを提起してしまうことになるでしょう。私の友人で論語を読んだ者があってあの孔子のように立派な考えにいたれないと責めていた。そうかなぜか?あの論語はたしかに徳を鍛えるに最高のよりしろであり教科書みたいなものだ。であれば論語に向き合うことでそれなりの人物になれるかもしれないのだ。

 この文明がわかっている時代の各時代にはりっぱな人がたしかに生きていたという記録がのこっている。過去にも立派な徳ある人がいて生きていた文献やその人のことを書いた記事や本が今、現代においても伝わっている。さて、私はどうかというと徳を表すことにおいてまだわからないのであるし、そんな立派な生き方はしていない。周りに迷惑かけたり悪いことをしたりして害している部分もある。かなりハチャメチャな生き方もしているので、あまりお手本になるような人物ではない。となると自由でいいのか?孔子においてもかなり感情を素直に出してハチャメチャな人生を全うしていたことを論語で知るのだ。なのでけっこう自然でいいんじゃないかと思う。素直にまた素朴に心のままに、むき出しの自分の本性をぶちまけて懸命に生きて行けば知恵もわいてくるし仕事のパフォーマンスも上がってくるので自然で生きて真摯に人生にいどんでいればそれがそのまま過去の人になった時に徳という形で思い出になっていくのではないかな、と思うのだ。

 徳は最初に生命の光り、精神の放つ輝きと書きましたが、そのままのあなたで生きていればいろんな場面その生き方が徳になっていくんじゃない。あと、人にとって大事な徳の中に仁とか慈悲だとか愛があるけどそういうポテンシャルは人は無尽蔵に引き出せるのだ。愛は人が生きる上で最大の生き抜くための処世術だから、この愛によって自分の身が生かされることは私の人生で実感と証明がされている。愛の中に徳の原質なるモノもあると言ってもいい。愛が洗練されると徳に発展して人類の宝になるから、愛は大事なことなんだ。ただ、「愛」それと愛の表現で人生で生きていく中に徳が発生する。ポイントは愛とその愛をあらわす表現が徳の原因だと定義させていただきたいと思います。

 
 徳のいいところは、何かなあらゆるものがよくなるということだ。そのためには徳を積むことだ。徳があると立派な人に見える。そして富貴な者になって尊敬されるだろう。徳は愛に似ている、愛と同義のものが徳であり、人に身につくことで人徳になる。な~に簡単なことである徳をつみ自らしっかりするだけで、あらゆる災難から守られ、生活にもなぜか困らなくなる。徳は右手でやっていることを左手に知らせないことだ。陰徳をつむことはなにか困難な状況にいたった時、あなたは守られる。それゆえ、徳はあなたを守る。あなたは徳を得るためにテストを受けなくてはならない。それはかなりしんどい修行に泣ていくだろう。徳があなたを認めるまでかなり厳しい試練にあわされるだろう。常人にはむずかしいことはあるかもしれない。徳は愛である。愛の貯金を徳と言う。愛は宇宙ではお金みたいなもの、愛ある行いは預金して自分の心の宝箱に貯蔵されていく。そして、ある時、引き出して消費し使う時があるのであります。

 徳を運をためるということもできます。徳は天に富を積むのとにています。何か危険がおきたらなんとなく助かる運の良さ、日々ひとやもの森羅万象のそんざいに愛をそそいでいると徳がつまれていき、なにか運がよくなっていき、人々もあなたを危害をあたえることが不可能になる。かつてサナンダがいっていたが人からののしりうけたり傷つけられたり、悪い思いであなたにあたってきても応戦してはならないと、たとえどんなことがあっても仕返ししてはならんと、それは徳を積み、許す事により、神からもあなたの悪や罪を許されるからそれは徳であり、運である。人に日々、毎日やさしく対応していると、周りからあなたは好意的なかかわりをしてくれることがあり、それはあなたの徳の輝きがもれていることが原因である。

 徳とはオーラのようなものであります。徳を積む習慣をつけることで運をよくすることも人生では大事です。しかし、それは見せびらかしてはいけない。右の手でしていることを左の手に知らせてはならない。もし、あなたの善行がかくれているなら、天はそれにむくいるだろう。しかし、その善行がみんなに知られ大衆に知られることになったら、それはそれで人々から賞賛をあたえられる。しかし、神徳にはいたらない。天に知られて運と徳を積むか、人に知ってもらいほめられて終わるかどちらを選ぶかだ。どちらも両方とも大事なのでどちらもやるべきである。しかし、人に褒められることを目的にするならそれは単なる自己愛でしかない。これは言っておく。善行は無心にやるのが賢明である。ほめられることを目的にしては天からのむくいはないだろう。むしろ、人にみせるための善行はかえっていやらしくさえも思える。政治家のスタンドプレーにはつかえるかもしれないが、あまりいいセンスとはいえない。これは私の感想である。


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