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イデアの考察 存在について抄 本多裕樹

存在についての考察

存在を語る時、存在については過去の哲学者や科学者たちがかんがえてきた。かつて、物理の古典では、体積に密度が浸透した物質を質量と呼んできた。質量を存在としていたこともある。この質量はエネルギーをもっていてモノといわれるものはすべてエネルギーであると現代の物理では言われている。つまり、存在は質量ということにしたらエネルギーとしても定義できるのだ。このエネルギーは、光のポテンシャルをもっていて時空に遍在するフォトンとなっていく。光にも質量があり、粒として存在を認められている。これを量子と呼んだりしている。すべての存在の根源を物理学的にとらえると光になり、光子エネルギーということになる。物質は光りで構成されている。では、存在となるともっと観念的になるかもしれない。観念というのは心でみえる世界である。これを形而上学ということもある。または、観念をもって哲学することをその抽象性の学問にするゆえに観念論哲学ということもある。心、これは心理学で学問として研究されている。これは物理の思考とはまたちがった視点の存在論である。観念論は心で見る世界であり、この心の実体は人間の精神に内在された神のコアである。これを心の筋といったり、人間生命の師であり、神の意識である。神の意識はすべての存在にうめこまれている。森羅万象のすべては神の意識をもっていて神と通信可能なのである。これはインスピレーションとして直感で伝わってくる。これを解凍しこの世に具現するのだ。心理学であつかう心は、精神と言い精神は霊体の研究である。霊体の中に心はあり、心を研究することは神の心を研究するのことだ。心はセンサーであり天のアセンデットマスターと通信したり、宇宙の意識とつながりインスピレーションを得たりする。この心は宇宙のインターネットと接続する事でさまざまな知識を必要な知恵を引き出す事もしてわれわれはこの地上で生活の中で、また文明の導きを現象化するのだ。現代物理では外の世界の視点でもって宇宙を研究する、宇宙を探求することは神を学問する事だ。観念論における心理学、または心の研究は、神を、自分の中にある神をさがす研究である。そしてこの心理学は内面から、人間のエネルギー体における霊の中にある神のコアを発見し、自分の中にある神のコアを見つけ発動させるものである。ここで、また語るが人間は本来、宇宙の根源とつながることができるのだ、古代の賢者たちはこの宇宙の根源神とつながり知恵を引き出していたのだ。宇宙の根源とつながり、または接続して日々を生き、科学、サイエンスでもってこの地上に表現していたのだ。そういうことになるとこの存在論の考察において、存在は宇宙の中で生き、自ら存在に溶け込み、神と同じ可能性を得て、存在を創造する事が可能なのであります。存在というのは実は不安定なもので創造されたものである。またはイリュージョンであると言えます。本来は存在の定義として光からできたもの、神の子たちが作った創造世界であると言えます。存在を質量として、エネルギーとするとエネルギーのさらに高次元の意識から創られた秩序立ったイリュージョンをわれわれは生きて存在している。存在とは生かされている。存在である以上、人間はこの地上でもって生きて自由に生きて学んでいるのだ。われわれは神の夢を見ている。われわれは夢の中でいきているのだ。そして、養われていると言える。


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