メタ社会学的対話 [1/5] -- 「入門」の一歩先へ
社会学とは、不思議な空間です。それは体系化された学問とは言い難く、入門者は雑多な概念に惑わされてしまいます。私自身も、社会学の魅力に惹かれて迷い込み、しばらく平衡感覚を失った経験があります。
この論考では、すでに社会学に入門してしまった人々のために、社会学を歩くための私なりの視点を提供しようと思います(ただし、私の意図はそれに留まりません)。内容としては重厚になりますが、少しでも読みやすくするために、対話という著述スタイルをとりました。それでは、対話を始めましょう。
―― 君が相談とは珍しいじゃないか。君は少なくとも、一般的な学生よりは遥かに優秀なはずだ。
―― 優秀かどうかは分からないが、真面目ではあるだろうね。僕が「社会学」を履修しているのは知っているだろう?
―― 政治学科の必修授業だったね。今日は社会学についての相談かい?
―― 簡単に言えば、その通りだ。しかし、その内容は簡単じゃないと思う。その全貌は見えていないけど、社会学の根幹にかかわることのような気がするんだ。
「社会学」「人間」「自分自身」
―― 君がそう言うからには、きっとそうなんだろう。それで、何が問題なんだい?
―― 僕はね、それなりに真面目に講義を聞いているつもりなんだ。それぞれの回で説明されたことは、だいたい理解できたと思う。
―― それじゃあ、何も問題ないじゃないか。
―― そう焦らず、もう少し僕の話を聞いてくれ。そう、それぞれの回の内容は理解できるんだよ。けれど、もう少し広い視野でもって、「社会学」の講義全体を見渡してみると、途端に訳が分からなくなるんだ。
―― ほう。
―― ウェーバーの社会学、デュルケームの社会学、フーコーの社会学、ブルデューの社会学など、それぞれはなんとなく理解できた。でも、個別の社会学の理解を深めていくにしたがって、「社会学」という全体が、どうにも掴めなくなってね。
―― なるほど、それは確かに社会学の根幹にかかわることかもしれない。要するに、君が言いたいのは、「社会学」のなかでは、いろんな概念が無秩序に散らばっているように見えるということじゃないか?
―― そう、まさにその通りなんだ。しかも、それぞれの社会学は、しばしば矛盾するだろう?
―― 確かにそうだ。たとえば「主体性」という概念をとってみても、それを積極的に認める立場、消極的に認める立場、全く認めない立場があるね。
―― それぞれに例を挙げるとすれば、「主体性」を積極的に認めるのがゴフマン、消極的に認めるのがブルデュー、全く認めないのがルーマンかな?
―― そうなるね。それで、社会学の教授は、どの立場が正しいかは言わない。
―― さすが、よく分かってるね。それで、社会学という学問がよく分からなくなっちゃって。しかも、「人間」というものが掴めなくなってきたよ。
―― なるほど、それは重篤だ。つまりは、君自身が、積極的に主体であるか、消極的に主体であるか、あるいは純然たる客体なのか、分からなくなってしまったのか。
―― そうだね。もっと簡単に言えば、自分自身が「主体」ではないのかもしれない、と考えて恐ろしくなった。社会学に出会うまで、僕は自分を「主体」だと信じていたんだ。
―― しかし、社会学も、君を「客体」として断定するわけではなかろう?
―― だからこそ怖いんだ。むしろ、自分を「客体」だと断定してくれるのであれば、そのほうが楽だよ。自分は客体かもしれない、しかし主体なのかもしれない。この振動のなかで考え続けるのは疲れてしまう。
―― 君は、皮肉にも理想的な思考回路を持っているようだ。
―― どういう意味だ?
―― 君は、「社会学」の輪郭を見失ってしまった。社会学は「人間」を扱っているから、社会学の霧散は、人間の霧散を意味する。そして、君が自らを人間だと定義している限り、君自身が蒸発することになる。
―― 恐ろしいことを言わないでくれ。しかしなるほど、事態がはっきりしてきた。つまるところ、「社会学」と「人間」と「自分自身」は、ひとつの問題として理解できるわけか。
―― やはり勘が鋭いね。その通り、君が「社会学」を取り戻すことは、君が「自分自身」を取り戻すことに等しい。
―― だんだん分かってきたよ。僕の相談が「社会学の根幹にかかわる」ということは、それは「人間の根幹にかかわる」ということだろう?
―― まさにその通りだよ。それじゃ、まず、人間の根幹にかかわる問題を考えてみよう。
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