マネジメント・ゲームをいかに語るか

 本稿は、私の決意表明である。



マネジメント・ゲームとは何か

 MGは、「生きた経営学教科書」である。ただの書物では、経営体のダイナミックなところが分からない。スタティックな本では、たとえば節約すれば利益が出ると見えるが、生きたゲームであるMGでは、節約すれば、周りのパワーに負けて、いずれ赤字に転落する。節約は管理者の論理であり、経営者の論理は、リスクテイキングである。

 経営体は、まるで生きたナマコのように、全体がつながった一大有機体である。おまけに、コンピューター・ゲームとは異なり、一人一人が社長なだけでなく、周りが皆敵である。周りの仲間とのダイナミックスで影響を与えたり、与えられたりして、業績が決まって行く。相撲と同じく、他人の胸を貸してもらっての自己鍛錬なのである。

西順一郎『MG教科書A』より引用

 マネジメント・ゲーム(MG)では、すべての参加者が「社長」となって、それぞれ自分の会社を経営する。6人が1グループとなってゲームを行うのだが、その6人は材料市場や製品市場を共有しているため、互いに互いの意思決定を制約し合うことになる。市場と競合他社の状態を踏まえて意思決定すると、それが市場と自社の状態を変化させ、競合他社の意思決定の条件を用意する。互いの思惑が交錯する中で、大きく利益を伸ばす社長もいれば、赤字に泣く社長もいる。5年間の経営を経て、自己資本(純資産)をもっとも増やした社長が「最優秀経営者」となる。

 自分自身で決算を行うことも、MGの大きな特徴である。決算表に勘定科目ごとの金額を写し入れ、一定のプログラムに従って数字を転がしていくと、いつの間にか経営活動の成果が浮かび上がってくる。最初のうちは何が何だか分からないが、ゲームと決算を繰り返すうちに科学的経営の感覚が身についてきて、PLやBSをイメージしながら意思決定できるようになっていく。


MGは「人間」を作り変える

 たとえば、売上至上主義の営業マンがMGをしたらどうなるか。営業ノルマに追われながら、受注獲得に命を懸けている人である。おそらく売上は大きく伸びるが、利益はさほど伸びないだろう。もしかしたら赤字になるかもしれない。そして、自分よりも売上が少ないプレイヤーが自分よりも多くの利益を出していることに気づいて、急に自信を失ってしまう。「誰よりも売上は大きいのに、なぜ利益が出ないのだろう」「私はこのままでいて大丈夫だろうか」と、彼は思考を深めていく。

 ゲームで意思決定を積み重ね、決算で自分の意思決定を反省する。また、他者の意思決定を思い出しながら、他者の決算と自分の決算を比較する。このプロセスを繰り返すと、自分の思考のクセが見えてくる。自分の思考が何かに囚われていて、それが利益創出を阻んでいることに気づくのである。日常生活では見えてこない思考のクセが、MGによって明らかになる。このメタ認知こそが、自己変容のきっかけとなるのである。

 身体に染みついた考え方から距離を取りつつ、新しい考え方を意識的に活用しながら意思決定を繰り返すことで、新しい考え方が身についていく。いつの間にか、意識せずとも新しい考え方に基づいた意思決定ができるようになる。自分の部署しか見えていないパーシャルマンから、会社全体、あるいはその先まで見えているトータルマンへ。売上主義やコスト主義から、付加価値主義へ。X理論から、Y理論へ。MGは「人間」を作り変えるのである。


資本主義を乗り越える可能性

 MGの開発から半世紀ほどが経過し、各所でさまざまな成果を上げてきた。具体的な事例を見ていくと、MGの効果は組織文化の刷新として現れることが多いようである。もちろん利益も増えているのだが、それ以上に「会社の雰囲気が明るくなった」「働くのが楽しくなった」ということが、当事者の実感として強く語られる。

 利益が出ることは、会社が存続するための絶対条件であるがゆえに重要である。しかしそれ以上に、働くのが楽しくなることは、「生活のための〈死んだ時間〉=労働」を〈生き返らせる〉ことを意味し、資本主義に新たな可能性を与えるがゆえに重要なのである。「ワーク・ライフ・バランス」や「生活のために働く」という言葉は、労働と生活が分離していることを前提としている。しかし、本来、労働は生活の一部ではなかったのか。資本主義社会は、生活から労働を引き離し、労働を〈死んだ時間〉へと変貌させることで拡大してきた。その資本主義社会のなかで〈ワーク・アズ・ライフ〉を取り戻し、資本主義そのものを乗り越える可能性を、MGは秘めているのである。


MGをアカデミックに語るには

 このような成果と可能性があるにも関わらず、MGを扱った論文はほとんど存在していない。なぜなら、MGを学問的に扱うことが難しいからである。学問には、先行研究=巨人の肩に乗るというルールがあり、それが学問全体に思考能力と権威を与えているのだが、その一方で、既存の学問と大きく異なるものは学問に組み込めないという制約にもなっている。たとえば、MGと親和性がありそうな経営学も、基本的には上級管理職がいかに意思決定すべきかという論理であって、「全員経営」的なMGの論理とは大きく隔たっている。また、MGが理論ではなく「思想」や「実践」に焦点を当てていることも、MGをアカデミックに語ることを難しくしている。

 しかし、何としてでもMGを学問に引きずり込まなければいけない。MGの原理と効果をアカデミックに説明できれば、〈死んだ時間を生き返らせる〉ということが決して迷信ではなく、理論と再現性に基づく科学であることを証明できる。また、これだけの成果を上げているMGの原理と効果を説明できない学問に、いったい何の価値があろうか。

 そこで私は、社会学に希望を託すのである。社会学には、「社会」や「人間」を語るためのアカデミックな蓄積がある。個々の人間を超えた「社会」の論理や構造を理解しようとしながら、我々が生きるリアリティ(現実=現実感)をも同時に汲み取ろうとするのは、私の知る限り社会学だけである。社会学の蓄積を活かすことによってのみ、MGを学問に組み入れることが可能になるだろう。

 社会学の巨人たちの肩に乗り、MGをアカデミックに語ることは、私たちの使命である。


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