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高校生のための人権入門(1) はじめに

人が生きる意味って〜人権を考える第一歩〜

人権について、わたしなりに考えたことを高校生の頃の自分にもわかるように書いてみたいと思います。

わたしが中学生の時、クラスで一番成績の良かった女の子が、なにかの時に、「人間って何のために生きているんだろう。わたしまだ、それがわからないんだよね。」というようなことをわたしたちに言ったことがありました。わたし自身、そういうことを考えたことがなかったわけではありませんでしたが、もちろんちゃんとした答えなど持ってはいなかったので、黙っていました。それから数日して、その女の子はまたわたしたちに向かって、明るい顔で、「わかった。人間って、自分が何のために生きているかを見つけるために生きているんだと思う。」と言ったのです。わたしはそれを聞いてなるほどなと思う一方で、それは答えになっていないんじゃないかという思いを漠然と抱いたのを覚えています。

大学に入って、3年くらいになった時だと思います。よく一緒に議論をしたりする仲間の中に、哲学を専攻している仲間がいました。彼はニーチェを研究していて、その読書量や、読みと思考の深さは同じ仲間の中でも群を抜いていました。そんな彼が、ニーチェに限らず、哲学や思想のもっとも根源的な問いは、「この(生きていくことに伴う)苦痛にどんな意味があるのか」、「この生(人生、生命)にどんな意味があるか。」ということなのだと教えてくれたことがありました。その問いは、それから今に至るまでずっと、わたしの中に常に響き続けています。

「この生にどんな意味があるのか。」何千年の間、人間が問い続けてきたこの根源的な問いについて、もちろん今のわたしが、何らかの答えを示すことはできません。ただ、生まれてから何十年も生きてきて、わかってきたことがひとつだけあります。それは、「もし、この生に、人(つまり、わたし)が生きていることに意味がないとしたら、そもそもこの世界自体に『意味』などというものはないだろう。」ということです。「意味」ということは、人が生きていることの中にしかありません。「意味」を感じることができるのは、生きている人(わたし)だけだからです。ですから、人の生(人(わたし)の人生、命)を、この世界の中から取り除いてしまえば、その後に何が残ろうと、その残ったものの中には、当然、「意味」はあり得ません。

なんだか人権とはあまり関係のない話が始まってしまったように思うかもしれませんが、実は、この「人(わたし)が生きている意味」ということは、人権とは切っても切れない関係にあるのです。そのことをこの連載(「高校生のための人権入門」27回くらいの連載を予定しています)の最後で、じっくりお話ししたいと思います。


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