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「女性だから差別される」のではない

偏見やラベリングが、なぜ差別の原因と考えられるようになったか(補足)

前回まで、「偏見やラベリングは、差別の原因ではない。偏見やラベリングは差別のあらわれであって、差別の本当の原因は、人と人との間にある『力の関係』だ」ということを書いてきました。しかし、これは「偏見やラベリングが差別を生んでいる」と思い続けてきた人には、とても納得できないことかもしれません。たとえば、多くの女性にとって、生まれてきた時にはすでに世の中には女性への差別が存在したわけですから、「女性だから差別されるのではない」と言われても、納得できない方がほとんどだと思います。

「なぜ女性は差別される」のか

「わたしは女性だ。女性だから、男性に比べてわたしは社会的に不利な立場に置かれている」とほとんどの女性が感じていると思います。ひと言で言ってしまえば、「女性だから差別されるのだ」ということになります。一見、これは当事者の実感を踏まえた見方、考え方なのですから、「正しい」考えのように思えます。しかし、そのように考える人は、「それでは、なぜ女性は差別される(ようになった)のですか」という問いにどう答えるのでしょうか

「そんなのはわかりきった話だ。実際に何千年にわたって女性が差別されてきた歴史があり、その結果として、現代の社会の中にも女性への差別が残っているからだ」と答える人が多いかもしれません。しかし、それは実はなんの説明にもなっていません。何千年も前にどのようにして女性への差別が生まれたかを、少しも説明していないからです

男性と女性の力関係が女性への差別を生む

なぜ、何千年も前に女性は差別されるようになったか。その問いに対して、多くの人は、「それは、当時の男性と女性の力関係から生まれたことだ」と答えるのではないでしょうか。わたしがここまで3回ほどお話ししてきたことは、そういうことです。

前回、こんなことを書きました。

これからわたしがお話しする過程は、あくまで原理的な過程です。ですから、実際の個人の経験や歴史的な事実とは合わないところもあります。しかし、差別がどのようにして生まれるかということを本質的(理念的)に考えると、こういう過程になると言わざるをえないのです。

前回、このように書いたのは、今回、ここまで述べてきたようなことを踏まえてのことです。人間社会において実際に、いつ、どのようなことが起きたか(記述的真理)と、その背景でどのような原理がどう働いたか(理念的真理)とは一致しないことがあると思うのです。

ですから、「女性だから差別される」のではなくて、「差別された(されている)性を女性と呼ぶ」ととらえた方が、実際に起きたことに近いと思います。とは言っても、結局のところ、「女性だから差別される」と「差別される性を女性と呼ぶ」は、同じことを言い換えているにすぎません。言わば、同語反復であり、なぜそうなるかの答えは、同語反復の外に求めなければなりません。障害者への差別についても、同じことが言えます。「障害者だから差別される」のではなく、「差別されるような心身の特性を持った人を、障害者と呼んでいる」のです。一見、ラベリングによって生まれているように思える在日外国人への差別、「肌の色」による差別、部落差別等も、よく考えてみると「力の関係」が先で、ラベリングや偏見が生まれるのはその後です。(くわしくは、前々回「差別や人権侵害が起きる基本的な構造」などをお読みください。)

まとめ

実際に起きていること(あらわれ)を見ると、「女性だから差別され(てい)る」ように見えます。しかし、なぜ女性が差別されるようになったかをつきつめて考えてみると、差別を生んでいるのは偏見やラベリングではありません。差別を生んでいるのは、人と人との間にある「力の関係」です

追記

これは、現在のわたしが抱いている仮説にすぎませんが、「差別」が生まれたのは近代になってからではないでしょうか。もちろん近代以前には、身分制や封建制がありますが、身分制や封建制は「差別」ではありませんし、人権侵害でもありません。身分制や封建制が「差別」に見えるのは、あくまで近代以降の目で見るからです。おそらく、近代が始まる時、人と人の力関係が大きく変わったのです。それによって、それまで「身分」とか、「当然の性的役割分担」と考えられていたものが、「差別」ととらえられるようになったのだろうと、現在のわたしは考えています。


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