人の感性を食べる

同じものを見ても、人によって見え方は違う。

あるものを見て、あるものを聞いて、何を感じ、何を切り取るか。

感じ入るのは間違いなく「心」と呼ぶべき場所で、思考や論理ではない。

ある人はそれが言語表現として表れ、ある人は視覚表現として、ある人は音楽表現として表れる。

それが「美しさ」をもって表れるとき、「芸術」=「アート」が成立する。

こうした何らかの表現を生み出す心の形を、人は「感性」と呼び、「センス」と呼ばれるときにはより、その人の持つ「才能」としての意味合いが濃くなる。


最近友人の家にお邪魔する機会があった。中に入るとすぐに、壁に飾られている、いくつもの割れた皿の破片が目に留まった。尋ねると、娘が海に行って拾ってきたものだという。私は数学的思考の癖で、「組み合わせると一つになるのか」と尋ねたが、鼻で笑われた。

娘はほかにも、鉱物が好きで、拾い集めるために休みの日には旅行に行くのだという。本人から直接話も聞いてみたが、話してくれるものがすべて、私がこれまで抱いたことのない感覚ばかりだった。

そういう感性もあるのかと思い、家族、そして何人かの知人女性に尋ねてみた。すると、みな口をそろえて、「鉱物とか、石は好きよ」と言うではないか。

驚いた。これまでの人生で、これほど大勢の人が当たり前のように感じている、感性の存在に気づくことすらなかったなんて。私はよほど狭い世界で生きてきたのだろうと思った。

私は猛烈に、この感性を理解したいという衝動にかられた。より正確に言えば、この感性を獲得したい、と思った。他人が見えているものが、自分には見えていない。これを「嫉妬」と呼ぶのなら、そう呼んでもよい。

とにかく、この感性を知りたいと思った。鉱物をたくさん見てみた。手に取ってみた。好きな人からたくさん話も聞いた。結果、私の心はたったの一度も反応しなかった。心の扉を一生懸命開いてみたのだが、私にはその感性はなかった。

いや、より正確に表現すれば、私が既に持っている感性とは、まだ統合されなかった。統合するには、あまりにも基礎がなっていなかった。これまでの人生でその存在にすら気づかなかった感性である。もっともっと時間がかかる。

それでも希望を捨ててはいない。なぜなら、それは人が美しいと感じているものなのだから。それを無視することは、そこにある人の心を無視することになる。そんなことはしたくない。

どれほど時間がかかっても、理解したい。そして、自分の中に既に存在する美の感覚と統合できたとき、そこには全く新しい三次元空間があるはずだ。

そして、その時自分が何を表現するのかを見てみたい。今よりは少しでも次数の高い「美」を、わずかでも表現していれば幸せだ。

もう少し、「食べて」みる。

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