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#番外 劣等感と文化資本

 今回は息子の大学受験の話。学歴コンプレックスについて吐露していますが、学歴自慢や学歴マウントと取られる可能性もある内容かと思います。そんなもの読みたくない、という方はこの先に進まないようお願いします。






 15行後に始めます。長いです。












 息子が、一橋大学に合格した。

 高校の卒業式から6日。発表の日は仕事が休みだった。発表は午後で、それまでなんとなく落ち着かない。体を動かしたいと思ったが、ロードバイクに乗る気にもならず、バッティングセンターに行くことにした。落ち着かないのは息子も同じようで、一緒に行くという。ともに110キロの球を打ち込んだが、息子はいい当たりを連発していた。受験を乗り切る体力をつけるため、息子は昨年秋ごろから格安のフィットネスジムに通って筋トレをしていたので、バットコントロールが楽になったそうだ。大学で野球部に入ればいいのに、と冗談を言ってみたが、返事は曖昧だった。

 結果をみるのが怖いので、みておいて欲しいと言い残して息子は服を買いに出かけてしまった。妻と一緒にパソコンの画面をみて、表示された受験番号と受験票を何度も確認した。うそだろ、すごいな。というのが率直な感想。妻も私も喜び爆発というよりは、ほっとした感じだった。

 「今夜は焼肉だよ」と妻は息子にLINEを送った。まもなく、満面の笑みで息子は帰宅した。

 学歴について考える。この子のいとこは東工大や京大に進学しており、妻も偏差値のとても高い国立大学を出ている。偏差値の高い大学を目指せ、なんて言ったことは一度もないが、いとこのことをプレッシャーに感じていたかもしれない。ラカンの他者の欲望という言葉がよぎる。偏差値が高ければ立派で、低ければそうでもない、なんてことはない。断じてない。そんなことは重々承知なのに、自分は私大なので肩身は狭いと感じている。まあ人生そんなものだろう。

 私は浪人や留年やフリーターも経験しており、たまたま就職できた運のよさも含め、ある種のふがいなさと申し訳なさはずっと感じて生きている。その程度の後悔のようなものを抱えながら生きていくのも悪くないと今は思う。今日も東大卒の同僚たちと仲良く仕事をしてきた。同僚に一橋大卒が思いのほか多いことも、最近初めて知った。愛校心をかけらも持ち合わせていない私だが、学閥や学歴差別みたいなものがない今の職場には愛着を感じている。尊敬できる優秀な人たちばかりである。

 子どもは親の所有物ではないし、勉強したのは本人だし、何より合格したのは私ではない。なのに少し誇らしい気がして、そんな自分がいやらしいとも感じている。親兄弟や親戚にいい顔ができる。世間体がいい。同僚にちょっと自慢できる。嫌なヤツだ。おめでとうと言われると、別に自分が何かしたわけじゃないので恥ずかしさもある。神社仏閣はたくさん行って合格祈願はしたけれど。

 息子はさすがに喜びを隠せなかったが、いまは落ち着いたものだ。たまたま相性のよい問題が出たので運がよかった、と繰り返し言っているが、東大A判定の友人が落ちたとのことで、運がよいというのは実感なのだろう。教養書について書かれた本を読んでいたからか、ブルデューを引き合いに出して、文化資本は豊かに受け継いだかもしれない、などと言っている。最近ではフーコーの監獄の概念に興味がわいてきたようなことを、饒舌に話している。新しい学びの場への期待は大きいようだ。

 昨年の秋ごろには、担任の先生から出席日数が足りずこのままでは卒業できないと言われ、我が家はちょっとしたパニックになった。本人が一番混乱していたが、なんとか頑張って出席し、事なきを得た。塾も通わず、学校もあまり行かず、バンドの練習には行って、読書をしつつ、ゲームをしつつ、阪神戦をテレビ観戦しながら、マイペースで勉強していた。学校行けとか勉強しろとか、ほとんど言わなかった妻もすごい。17年前、この子を守ろうと思って、そしていつか立ちはだかる壁になろうと思って、私は合気道を始めた。一緒に山に登り、一緒にサイクリングをし、一緒に野球を観戦し、一緒にゲームをし、一緒にお笑いの舞台をみて、一緒に座禅会にもいった。楽しい18年間だった。

 今回のことで、自分のことのように喜んで誇らしく思っている自分、noteに書いたり同僚に話して自慢したがっている自分、息子をうらやましがって妬んでいる自分、そして学歴というものに思いのほかコンプレックスを抱き、とらわれている自分というものを発見した。

 卑俗な自分を認めてこれからも生きていく。

 それでも、この聡明な若者に幸あらんことを願う自分は間違いなくいる。この子を応援していこうと、あらためて思う。

 ともに食卓を囲んできた日々が終わる。想像していた以上に寂しさを感じている。充実した人生を経営していってもらいたい。できれば社会に出て何か役に立って欲しいけれど、役に立たなくてもいい。まずは自分がしっかり働くことで、愚直な社会の木鐸でありたいと思う。お金もまだまだかかるので、しっかり働かなきゃいけないし。この若者に恥じることのないよう、今回の発見を糧にして、おっさんも成長しよう。書いてしまうとちょっと恥ずかしいですが。

 思いの丈をただ書いた。重複するような部分も多いが、削るのも面倒だしうまくまとめられない。まあいいや。削除するかもしれないので、番外扱いにしました。

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