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目的は、家を手に入れることではなかった。

今から半年ほど前、家を買った。九州の田舎町にある古い家で、解体予定のものを格安で手に入れたのだ。

「家を買いたい」ということについて、これまで色々書いたけど、僕は「住むための家」というよりも、「手を入れるための家」が欲しかった。なんでそんなことを思ったのか、その理由を今日は書いてみたい。

ひとは幸せに暮らすために生きている

多くのひとが感じたと思うが、東日本大震災、そして熊本地震を経て、仕事を第一とする生き方に疑問を抱いた。これから何十年も仕事するために生きていくのか。いやそうではなく、幸せに暮らすために生きるべきじゃないかと。

では、果たして「幸せな暮らし」とは何なのか。それを考えてたどり着いたのが、暮らすこと自体を楽しむ、すなわち「衣食住をみずから楽しむ」という生き方だった。

「衣食住」と「仕事」の距離を近付けたい

暮らしの根幹は衣食住である。これは縄文時代から変わってない不変の論理。たとえば、男が狩りをして獲物を取ってくるという任務は、食料を得るためであって、仕事は食とイコールの関係だった。

それと比べて現代の僕は、働いて→お金を得て→そのお金で食料を買う、といった具合に途中でお金が介在している。

「なんで働いてるんだっけ...?」という疑問が出てくるのは、お金が途中に挟まっていて、仕事と食が遠い位置にあるから。であれば縄文時代の食と同じように、「住」を仕事と近付けることによって、日々の暮らしが豊かになるのではないか。

江戸時代は家をセルフビルドするのが当たり前だった

ここで時を江戸時代に戻してみる。人口の多くを占めた農家の家庭では、長男だけがその家(土地や建物)を継ぐことができた。次男以降は結婚したら分家して、新たに家を構えることになる。だが年貢の取り立てが厳しく、家を建てる資金は少ない。では、どうしたか?というと重要な部分だけ大工さんに頼み、それ以外は村のみんなで助け合って家を建てていたのだ。

建てた後にはメンテナンスも必要となる。茅葺き屋根は時間がたつと痛んでくるので、何年か置きに村人総出で屋根をふき直す、ということもやっていた。もちろん村の家すべてについて、この作業をくり返していく。

これは労力を相互提供する「結(ゆい)」という仕組みだけど、ここにはお金が介在していない。これこそ、仕事と住が直結する暮らしではないか。目指すべきは「家をみんなで建て、直しながら暮らしていく、江戸時代に先祖返りする生き方」だと考えるようになった。

あらたに家を建てなくても、余っている家に住めばいい

家を建てる、直すことを自分たちの暮らしの中に取り入れていく。その事を考えた時、建築のスキルがない素人の僕が、家を建てるハードルの高さに、まずつまづいた。

でも、待てよ。家を建てるのではなく、直すことから始めてはどうか。これは、最近流行ってるセルフリノベーションに近いけど、直す経験を積むことによって、家の構造や技術を学び、知識やスキルを身に付ければ、自分で家を建てることも不可能でない気がする。

いま日本には800万戸以上の空き家がある(2018年時点)。割合でいくと7軒に1軒は空き家なのだから、この余っている家を安く譲ってもらうことができれば、難易度が高い「家を建てる」というフェーズを飛ばすことができる。そして、みずから家を直すことによって、「仕事と住が一体化した」豊かな暮らしが取り戻せるのではないだろうか。

手を入れるための家が欲しいのだ

長々と書いたが、ようやく結論。

幸せに暮らすために、何をすべきか考えた結果が「実験用として、手を入れるための家を手に入れよう」ということだった。

ということで、なかなか家を買う段階まで話が進まないけど、金銭的な余裕もないのに、家を買いたいと言っている理由を自分の中で整理するつもりで書きました。なんか当たり前のことをゴチャゴチャ言っててすいません。

▼その後の顛末は以下より



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