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インナーチャイルドとゼロ磁場


昨日の朝、LINEでヒプノセラピー受講で出逢った友達が

「村松大輔さんという方が
『インナーチャイルドは量子レベルで見たら、存在していません。
あるのは、素粒子のモワモワでありゼロポイントフィールドです
ゼロポイントフィールドは愛、感謝ですね』

と言っています。」

と教えてくれた。

殆ど無意識に、「ほっほー。そりは面白い♡」と返している自分が居た。

そして、(それって、インナーチャイルドとは)「過去の某《地点》=シニフィエの問題というよりむしろそこへ遡行する《パースペクティブ、現在からの意味づけ》シニフィアンの問題、ってことかも」

とも言っていた。(思い癖、という言葉がよくスピ系でも言われるが…。)

この村松氏の見解をすなおに読み取れば…

インナーチャイルドの「地点それ自身が持っている」属性、ではなく、「現在の私」地点から過去のある地点への<意味付与性>が、NegativePerceiveを帯びさせているのではないか、

その感覚が(当たり前なことなのかも知れないけれど、あらためて)面白かったからだ。勿論ヒプノセラピーの施術意義とは、何故できない→どうしたらできる、など総じて前を向いて戴くことにあるから、犠牲者のポジションから人生の主体へとリフレーミングできるようにステップを踏む訳で、その際インナーチャイルドに投げる患者本人の眼差しの意味も必然的に交換されていく訳だけれど、それでも、インナーチャイルドの存在「地点」には患者本人にも施術者にも何か予めnegative perceiveが付(憑)いているかのように感じられていた。ところがそれは、その地点へと遡る《眼差しの方に》付いているという明解な理解である訳だ。そしてその地点はnegative regionどころか愛と感謝そのものの発現場所なのであると言い切られる。

そして、

0ポイント(愛と感謝)であるにも拘らずそのもやもやを何らかnegative  perseiveとして把持されやすい心理学的要因がそれはそれであるとするなら、宇宙物理学側からいうところの Wave–particle duality (粒波二重性)の問題、その機序とかさなるかも知れないとも言った。そう思えた。

とすると、そういう意味では私も0ポイントは愛だ(と考えたい)と思う派なのだけど、ほんとうは 空 なのかもしれない。(※場所、としては)

もっとも、そこもデュアルポイントかも知れないが。
(そして…)ということは、量子レベルのみならず素粒子レベルでも粒子と波動のデュアルがある、と言えるかもしれない。

これをいうと、素粒子よりさらに遡及できる作用圏はない(とされている)という反論をきっと受けると思うけれど。なので素粒子界、といっておくとよいかも。いずれにせよ 0ポイントとは今ここ(しかない世界)、ということはできるが、よって素粒子(界)=0ポイント というのは、素粒子(界)がこれ以上遡れない場、と「いま」は、されているから、といえるにすぎないとも言えるかも知れない――動画で言われている所では、現在、光子(フォトン)等諸々と素粒子が主語。――


こういう見解もあるし(リンクさせていただきます)…

こういう感じであるが、少なくとも――仮に光子・素粒子界がこれ以上遡れない窮極ポイント、としても――そうした素粒子(界)に もやもやがある、と述定してしまえるということは、そこにすら もう揺らぎ、自発的対称性の“破れ”がある、といっているのと同じかもしれない?!?! 、そうすると ゼロ磁場そのものが、粒/波動 二重構造 だと言っていることにもなる....(気がする)。?


ところで、

いま、私が(インナーチャイルドについて言及しておられるのはまだ見つけられていないのだが)、ひとつ、0ポイントについて解説しておられる、村松氏の動画を見つけることができたので、リンクしておいた。


これを聞いていると、0ポイントは、村松さん自身の把握では、空(くう)に近いのかも知れない。動画中、ラズル博士というかたが、「愛と感謝」を0ポイントに入れた と述べられている。

がいずれにしても、この見解が<否定されない>のは自分としてはありがたいことだ♡

ここを 愛と感謝、という把握は、どちらかというと、「ポイント/リージョン」(宗教者がよくいう、場(場所)とか磁場、になるかも知れない)それ自体より、そこで発生している「エネルギー(とその現象)」のほう、つまりモヤモヤの不思議波動=霊性のほうにスポットを当てた表現といえるかも知れないとは思う。

ゼロポイントそのものは宗教(哲)学、たとえば禅などでよく使われる表現ではやはり空、とされると思う。私の恩師もキリスト者だが、全ての根源は「創造的空」という表現を現在、されており、そういうくくりではやはり、根源(地点)=空 だという認識でおられるようだ。それがクリエイティヴィティの発露と一な現場なので、即非的な把握が込められていると思うが。

私自身は、根源――宇宙物理学ではゼロポイント――は、(宗教[哲]学的には)空といわれるんだろうけれど、できれば「愛」であってほしいな~というようなことをツイッターでぼやいたことがある。

もう一年以上まえになるかな~?

この感覚は仏教や禅というよりはキリスト教寄りかも知れないが、自分がどちらの宗教に寄りたいか、などということではなく、今生きている生命体の実感として、ただ単に「そうであってほしい、そうであってくれると嬉しい」という本能的な感覚からそう言った。それは今でも変わらない。

注)1980年代(今でこそ当たり前になってきたが)当時は、宗教の枠を超え対話することに対し、まだまだ賛否両論ありの時代で、そういう対話の姿勢に関しては、宗教の枠内に居る人ほど拒絶反応というのに近いものを持っていた。その為先生自身も日本でより海外で必要とされている人材だった。私など無宗教の人間(枠外者)からすれば、対話して当たり前なのでは?と思えていたが、おそらくまだまだ宗教の「外側から見ても賛否両論」あった時期、だったかも知れない。まして「キリスト教内部からそれをやるのが、大変なんですよ~」と先生ご自身から愚痴られていた笑。(また、私もその先生ご自身と出会う前、大学時代妙に惹きつけられ興味を持っていた現象学とも、通じるものがあるのでは という動機とも重なり――それについては当時の先生からは否定されたけれど笑。。今ではどうなのだろう――、先生の発言や表現、越境する対話的態度etcetc..に素朴に賛同したり著書を読んだりしていたため、学生時代、そのとばっちり?を結構受けてしまった笑)まあそれはいいとして…。)

ともかく、(インナーチャイルドへと視点を戻すと)

インナーチャイルドに対し一般的にある、negativityの所与性・保持性――ヒプノセラピーでも、過去の重要な意味を持つ「地点」そのものが帯びる:人生の主体によって持たされる、属性というニュアンスで習った。インナーチャイルドとは、おそらくこれまでの常識だとつねにそれ自身が傷を負っていて癒されるべき対象、だった―― は、それ自身がnegativityを抱える問題となる過去の某地点であるから、という見方=シニフィエの問題、であるというよりは むしろそこへと遡行しようとする意思・意識の志向性に付帯する<現在からの意味付与>の問題、perspectiveの問題だということになってくるという事を、今回のようなインナーチャイルド理解は、意味し提示するように思うし、そこに意味の二重性が、――ちょうど物理学のWave–particle dualityに相当するもののように――付いてくる、とも思われる。

そういう意味でも、この動画の講座は、或る意味画期的なのではないだろうか。

0ポイントが 愛と感謝 であるか、もしくは 空でありつつ愛と感謝 でもあるもの、であるにも拘らず そのもやもやを何らか「ネガティブ」・リージョンで把持しなければならない心理学的要因が、もしあるとすれば、

そのエネルギー磁場は、つねに「問いかけ」もしくは「呼びかけ」のような状態で、応答のエネルギー(で満たされるの)を<待っていた>のかも知れないとも思う(エネルギー不均衡の発現現場)。ところがそれが還ってこないので、その待ちもうけに堪えられなかった、挫折し・持続する不安から、自分でNegativityの所与とエネルギーを補填し保存してしまう、そして繰り返し繰り返し、封をしてしまうのかもしれない、とも思ったりする。

すると、こうしたデュアル〔自足の破れ、不均衡なエネルギー発生の構造、その二重性〕から私たち生命体は自らを解けないのだとすると、あとはエネルギーのパースペクティブは勿論、ベクトルそのものを生産的な性質へと転換(転回)し、せっかくのモヤモヤの持つ霊性を主体的-生産的に生き返す(即非;空即是色)しかない、ということになる。過去や未来に向かっていたものは今ここへ、ネガ(不足/出来ない)へ向かっていたものはポジ(充溢/出来る)へ、外へ向かっていたものは内へなどして、構造として表裏・陰陽くっついていることそのものは回避できないとするなら、それを逆手に取りエネルギーが漏れないようにするには、ハイヤーセルフ――ここがより高次とつながるのだが――が原基点になって、そこ(=今ここ)から「即非」現場の主体として動的に観照しつつ自己-自我(self)を受肉する形をとることになる。と、波動が健全な愛と感謝のそれであるためには、その発現地点は 空 ということにやはりなってくる、と思う。

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※ただ、この動画にも例が出されてあるように、愛と感謝を抱くにはあまりに無理がかかるほどの悲痛な体験である、という場合がある。同動画で村松さんの出された例にあったケースも、愛と感謝へのシフトチェンジでめでたく乗り越えられたケースとなったようだが、精神力は必ずや更新されるという前提にたっても、その時々の、またその状況々々における本人の精神-身体力をあきらかに越える場合もある。またそこに他者連関との矛盾の『構造』があまりに鋭く穿孔し、また深く横たわっているのを、公共空間が直視し共有したなら、以て――生きる個的主体のみならず――共同体も共同体として、よりフレキシブルに更新されることにより個個をサポートすべき場合も、あるのではないかというのは私の意見として常にある。



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