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花野菜ネプリvol.01

京大短歌・上終歌会の4人で結成された短歌ユニット『花野菜』のネットプリントvol.01を出してきました。
適当に思ったことや感想などを書きます。

穏やかな野火/武田歩

武田さんらしい、発見をベースとした歌が並ぶ一連。
武田さんの歌は発見を生み出すために認識をずらす手法が取られていることが多いが、今回の連作は発見自体に認識が含まれているような感覚がある。

革靴に身体の部位のほとんどは収まらないで季節を浴びる

気づいたら/武田歩(京短ネプリvol.02)

京短ネプリvol.02の武田さんの連作より引用した。この歌は『革靴に身体の部位のほとんどは収まらないで』という発見を見せる歌であるが、この発見は「足を覆うものである靴」という認識をひっくり返して、「足以外を覆うことができない靴」と認識し直すことで捉えられる。その意味でこれは発見のために認識をずらすという手法をとっている。

それに対し、今回の花野菜ネプリvol.01においては、発見自体が認識に関わっている歌が多い。

目薬の最後にたどり着く場所に静かに揺れている朧月

穏やかな野火/武田歩

たとえば一首目のこの歌に関して、『目薬の最後にたどり着く場所』という措辞は目を意味し、『静かに揺れている朧月』はその主体の目のうるみによって朧月が(主体の目の中で)揺れているように見える、と解釈できる*1。下の句は、自身で自分の目に映る朧月を見ることができないということを考えれば、自分を自分以外の視点から捉えようとする、メタ的な試みを感じる。もちろん、メタ的な視点は認識によって生じる。

*1 『目薬の最後にたどり着く場所』は水が最後にたどり着く場所、という意味で海とも読める。その読みでは、海面に反射する朧月が揺れている、という景になる。この場合はメタ的な視点は発生しない。

キャンセル/津島ひたち

液体っぽいという感想がしっくりくる一連。
1首目と10首目を引き合わせて、『あなた』との関係性を読んでみたくなった。

これは映像ではなくて見つめれば目が合うということが生じる
坂道を降りる場面は夕方で順光にあなたは眩しそう

キャンセル/津島ひたち

1首目、目が合うという状態はお互いが相手のことを見ている必要があり、もしも私が見ている相手が映像の中にいれば、目が合うということは生じない。ここでは私が見ている相手は『あなた』だという説を推したい。なぜなら、『これは映像ではなくて』と言っている以上、映像に映っている状態も、映像に映っていない状態も知っている人を、主体が目を合わせる相手として想起したくなる。そこで『あなた』が候補に上がるわけだが、これは10首目の『坂道を降りる場面は』という措辞による。『場面』と言われればやはり映画や写真のような撮影されたものを想起してしまう。たとえこれを映像ではないものと処理したとしても、『順光にあなたは眩しそう』から想起される位置関係は、あなた、もしくはわたし(作中主体)が後ろ歩きで坂道を降りていることになってしまう。この不自然さを解消するにはやはりこの歌が立てる景はあなたが夕方の坂道を降りている映像だろう。そして、この映像こそが1首目の『映像』なのではないか。

自由の女神/寺元葉香

難解な歌が並ぶ一連。
その中でわかったつもりになれる歌はたしかに存在する。
わかったつもりになれる歌の例として挙げられるのは、

濡れた傘をぐっと差し込むとき胸で回りだす晩年の水車が

自由の女神/寺元葉香

上の句の何かを動かすための動作感が、下の句で幻視とはいえ動作につながる。第二句『ぐっと』がさりげなく動力感を増幅させていて、理解させてもらえたな、と思える。

それに対し、処理しきれなかった歌としては、

シャーペンの先でやぶれた皮膚それが力なくこの家の花として

自由の女神/寺元葉香

読みたくなる読みとしては、やぶれた皮膚をしおれかけの花にたとえて身体感覚を演出しようとしている、というものであるが、その読みは『この家の』という措辞によって打ち消される。『この家の』と一歩引いた視点に立った措辞が入ることで、歌が有する視点が単なる一人称ではなくなる。身体感覚として処理するためには、歌の視点は一人称で貫かれていることが望ましい(とわたしは思う)ため、用意していた読み筋が「この家の」という5音によって拒否されるような感覚がする。

雪解け/工藤鈴音

冬から春への季節の流れを感じる一連。
読んでいて気になったのは結句の処理の仕方である。

いただいたクッキー缶が手のうえにあるそれだけの心地よさ

雪解け/工藤鈴音

この歌は、いただいた/クッキー缶が/手のうえに/あるそれだけの/心地よさ といったように57575という型をとっていて、結句が字足らずになっている。これに対し、

白鳥の死骸のように固まってパイプオルガン触れられず、今

雪解け/工藤鈴音

この歌では、結句に『、今』とつけることで57577の定型を維持している。それゆえ「いただいた〜」の歌での結句字足らずは意図的なものとして捉えるしかなくなるのであるが、感覚的には7音にばっちりはめて、韻律的にも心地よくして欲しくなる。好意的に読むとすれば、『それだけの心地よさ』という意味内容を踏まえて、「それ以上もそれ以下もなく、それだけの心地よさである。」と表明するための字足らずなのだろうか。

以上です。なかなか骨のある連作が多くて、読み手としての技量をかなり試された気がします。作風に特徴のある4人が集まったネプリなので、次回も楽しみです!

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