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『ドラゴンボール』のピークがナメック星編(フリーザ編)までだと思う理由について番外編〜大衆迎合と商業主義で陳腐な英雄物語に成り下がった人造人間編以降の展開〜

前回までで『ドラゴンボール』のピークがナメック星編までだと思う理由を改めて全盛期の鳥山明が持つ画力によって紡がれる「絵の運動」という観点から語ってきた。
最終的にフリーザ戦のクリリンの2度目の死と孫悟空の超サイヤ人覚醒が根幹にあった「球の奪い合いによる上昇志向」を破壊し、それと共にこの先の物語も絵の運動も紡げないと論じた。
したがって、もはや人造人間編以降はその「終焉=死」の後の世界であり、だからたとえ同じ原作者が公式として紡いだものであっても「ドラゴンボールであってドラゴンボールではない別の何か」である。
タイトルにも書いたように、人造人間編以降の『ドラゴンボール』は私に言わせれば「引き伸ばしと商業主義で陳腐な英雄物語に成り下がった代物」としか言いようがない。

前回までの記事では意図的に触れなかった人造人間編〜セルゲーム、そして孫悟飯ハイスクール編〜魔人ブウ編についてを今回改めて批評することになる。
一応前書きしておくと、人造人間編以降の展開も好きなドラゴンボールファンの方々(今はどちらかといえばこっちの方が多数派なのでは?)にとっては大変辛辣な記事となるであろう。
近年では「超」の出来がひどいせいか「あんなのはドラゴンボールじゃない」だの「そもそも原作のドラゴンボール42巻が公式のドラゴンボールであり、後はパラレルもの」だの言い出す人も多い。
つまり、ここ数年で改めて「どこまでが「ドラゴンボール」なのか?」の定義がそれぞれにブレ始めて議論がまた再燃しているから、私もこうして記事を書くのである。

はっきりとここで宣言させてもらうが、人造人間編以降の展開は『ドラゴンボール』にあらず!

まあこれまでの記事を全て読了頂けた方々にはその理由はわざわざ説明しなくても想像はつくであろうが、今の時代はいちいち言葉で説明しないと理解できない読解力が根本的に不足している人もいる。
だから改めて説明するのだが、今回は前回までと違って批判がメインとなるのでご了承いただきたく願う、本記事を読んだことによるいかなる精神的被害をもこちらは考慮しないし責任は一切負わない。
それでもいいという方のみ、原体験の時から一貫して人造人間編以降の『ドラゴンボール』を「蛇足」と捉えている者の生意気な批評と名乗る何かをご覧いただければと思う。
以前に書いた記事とは評価軸の全く違うものとなるであろうことも考えが変化した結果としてここに記しておくので、「以前に書いたことと矛盾しているじゃないか」という指摘には対応しない。

⑴「球の奪い合いによる上昇志向」という根幹が破壊された人造人間編以降は単なる陳腐な英雄物語


人造人間編以降の魔人ブウ編、現在なら「GT」「超」「ヒーローズ」もそうだが、現在の『ドラゴンボール』はもはや単なる陳腐な英雄物語へと成り下がってしまっている
それは何故かといえば、前回のフリーザ戦の最後で述べたようにクリリンの2度目の死とそれに伴う超サイヤ人・孫悟空の奇跡的な覚醒と憤怒が「球の奪い合いによる上昇志向」という根幹すら破壊したからだ。
ナメック星編までの『ドラゴンボール』において通底していたのはここであり、あくまでも「ドラゴンボール争奪戦」を軸にあらゆる冒険・修行・バトルといったジャンプ漫画のお約束が付随していた。
一見ジャンプ漫画の王道に沿っているようでいて、実は過激な遊びや文法破り・掟破りを鳥山明は絵の運動として起こしており、それが想定外の面白さと魅力を生み出していたのである。

どれだけ強さのインフレが起きようとも、どんなに存在感のある強敵が現れてとんでもない規模感の戦いになったとしても、それらはあくまで「ドラゴンボール争奪戦」から派生した付随の要素に過ぎない。
従来のジャンプ漫画と『ドラゴンボール』が差別化を図ったのはまさにこの一点においてこそであり、だからこその『ドラゴンボール』という「球」を巡るお話だったのである。
よく『ドラゴンボール』の感想・批評・考察をネットなどで調べて回ると、それが肯定的なものであれ否定的なものであれ「物語はつまらない」という批判があった。
それは正解であり、『ドラゴンボール』の面白さは決して物語やキャラ描写のような心理ではなく、あくまで鳥山明の画力がもたらす「絵の運動」それ自体が魅力なのだ。

その終着点として描かれたナメック星編(フリーザ編)がバトルとしても、ドラゴンボール争奪戦のサスペンスとしても最高に盛り上がったのはそれが他のジャンプ漫画にない独自性の強い展開だったからである。
それらを散々描き、後述するベジータもナメック星編が全盛期だったのは決して物語に都合のいいコマにならない第三勢力としての絶妙なバランスを保っていたからであり、わずかでもズレれば単なる戦争ものにしかならない。
ナメック星でのドラゴンボール争奪戦を巡って熾烈なバトルが繰り広げられ上で最終的にドラゴンボール自体の厳しいルールとしてあった「1度死んだ者は2度死ぬと生き返れない」からこぼれ落ちた者を出した。
それがクリリンだったわけであり、初めてクリリンは鳥山ワールドから除外された存在となったわけであり、その極めて重い事実が超サイヤ人・孫悟空の覚醒と憤怒という絵の運動をカタルシスとして成立させるに至る。

ということは、『ドラゴンボール』という作品は既に「終焉=死」を迎えたわけであり、もうこれ以上の絵の運動も物語も紡げないことを鳥山明はあの物語の破綻を悉くねじ伏せる画力をもって示したのだ。
だから、その「球の奪い合いによる上昇志向」という根幹が破壊された人造人間編以降、正確にはフリーザ親子の地球襲来とそれを迎え撃つ未来トランクスの登場以降『ドラゴンボール』は陳腐な英雄物語に成り下がった
クリリンの死という究極の代償を払ってまで成立させた伝説の超サイヤ人を原作者自ら未来トランクスなどという陳腐な「正義の味方」の登場によって安売りしてしまったのである。
そして来るべきレッドリボン軍残党の首謀者・ドクターゲロは孫悟空への復讐を目的として人造人間を生み出し、最終的に地球を脅かそうとするセルとそれを迎え撃つ孫悟飯、こんなありきたりな勧善懲悪の何が面白いというのか?

実際、人造人間編のリメイクである最新作の映画のタイトルが「スーパーヒーロー」なのも『ドラゴンボール』がメカフリーザ襲来以降単なる英雄物語に成り下がったことへの皮肉だと取ることもできよう。

⑵「ドラゴンボールで生き返ることができる」は作品としての敗北宣言


人造人間編、特にセルゲームと魔人ブウ編でよくファンからも賛否両論となっているが「大丈夫だ、ドラゴンボールで生き返れる」発言であるが、これを鳥山明は他ならぬ孫悟空とクリリンに言わせている。

よくファンからはこのシーンをもって「悟空はサイコパス」「クリリンだってベジータと同レベルの戦犯」といったキャラクターに対する批判があるが、このセリフの問題点はそこではない。
物語上やキャラの心理として悟空とクリリンがこのセリフをいうことそのものに違和感はないだろう、2人は身を以てドラゴンボールの有り難みと生死の重さというものを知っているからである。
そうではなく、ここでの問題点はどこにあるのかというと、この「死んでもドラゴンボールで生き返れる」というセリフ自体が作品としての敗北宣言に他ならないということだ。

ナメック星編のクライマックスであるフリーザ戦は最終的に『ドラゴンボール』という作品自体の終焉であることを皮肉にもその役目を演じた2人に言わせてしまったのである。
物語としての制度としてある「ドラゴンボール争奪戦」とその厳しいルールの根底にあった「一度死んだ者は二度と生き返ることができない」というドラマツルギーなる要素は間違いなくそこで破壊された。
そんな壊れた世界で物語を続けようとするとどうなるか、それが上記の未来トランクスがそうであるように孫悟空をはじめとする登場人物が軒並み死に荒廃した未来世界という具象として示されている。
そしてそんな世界の終焉を避けるためにどうするかというと、結局は孫悟空の死を未来から来た人間の特効薬で未然に防ぎ、精神と時の部屋で修行を重ねて人造人間たちを倒させるしかない。

つまり徹底的に破壊された「ドラゴンボールという球がない絶望の世界」か「強敵は次々に出てくるが、何度でも復活可能な御都合主義の世界」のどちらかにしかならないのである。
鳥山明はやはりこの辺り聡明な天才作家であるから、連載の引き伸ばしをこの先続けようとするとどうなるかがわかっていて、敢えてそれを意図的にあの展開として出したのであろう。
最終的に原作漫画と名乗る『ドラゴンボール』を名乗る何かは後者を選択し、緊張感もクソもない弛みに弛んだ御都合主義の作品へ成り下がり大衆に迎合してしまった
そしてそれはもはや原作者個人の意思でコントロールできるものではないことがクリリンと孫悟空の両名からそれぞれにセリフとして言語化されたのである。

だから、悟空がサイコパスだのクリリンが戦犯だのといった批判は適切ではなく、もっと俯瞰した視点で「ドラゴンボール争奪戦」という根幹が破壊された後の死を迎えた作品の敗北宣言と見なすのが妥当であろう。
実際、それを示すかのようにナメック星編までは生き生きとしていた鳥山明の全盛期の画力もこの辺りから翳りを見せ始め、魔人ブウ編になると絵のタッチも雑になるし話の流れもぶつ切りで勢いがなくなる。
漫画において最も大切なのは「絵の運動」であり、決して「物語」「心理」「強さのインフレ」といった部分ではない、改めて鳥山明はその事実を読者に突きつけているのだ。
だから私をはじめ、『ドラゴンボール』という作品をナメック星編までしか認めていない人たちはそのことを本能的にわかっているからこそ人造人間編以降を「蛇足」として批判した。

⑶自由闊達な第三勢力から偽悪的な愛妻家というありがちなライバルキャラに堕してしまったベジータ


これまでに述べてきた理由から人造人間編以降の『ドラゴンボール』には根幹を破壊されたことで物語としての制度が破壊され、作品そのものの終焉=死が描かれたことの歪みが負債となっていく。
だが、わけてもキャラクター単位で見るのであれば、そんな引き伸ばしの都合で最も割りを食ってしまったのは他ならぬベジータであるが、私は人造人間編以降のベジータはナメック星編までと完全な別物なので大嫌いである。
それは決して物語上の扱いが悪かったからという主観的な理由ではなく、もっと客観的に見て自由闊達な第三勢力から偽悪的な愛妻家というつまらないキャラに成り下がってしまったからだ。
これに関しては例の魔人ブウ編をめちゃくちゃな屁理屈をつけて牽強付会気味に擁護しているあでのいが痛烈に論じてくれているので抜粋してみよう。

ドラゴンボール屈指の人気キャラクターであるベジータだが、その実物語内ではかなり割を食った扱い方をされている。
フリーザ編以降のベジータは、何かと理由をつけて悟空達に加勢するが、悟空に先んじてパワーアップを果たしては調子に乗って敵キャラに挑み、その結果ボロボロに惨敗するという、典型的な「いつの間にか仲間」「新キャラの強さ演出の為の噛ませ犬」の役割を押し付けられ続けて来た。ブウ編において、もはやベジータのキャラクターからは「宿命のライバル」というファクターはほぼ完全に剥ぎ取られてしまっているのだ。

ベジータファンの方々にとってはとても耳に痛い話ではあるが、実際この指摘は間違いではなく、連載の都合もあってベジータは特に人造人間編以降割を食った扱いをされている
一部には鳥山明がそもそもベジータを大嫌いだったが故に徹底した間抜けとしていじめ抜いたとの説があるが、仮にそうであったとしても作品そのもの評価に作家の意図は影響しない
ここで重要なのはベジータの扱いが悪いことでも悟空の宿命のライバルになり切れなかったことでもなんでもなく、そもそもの位置付けや魅力がナメック星編までとは完全に変わってしまったことだ。
ナメック星編までは物語の都合のいいコマにならない第三勢力としての自由闊達な魅力があったにもかかわらず、人造人間編以降はZ戦士に加えなければならなくなった。

そんな事情から上記の未来トランクスも含めてベジータをわざわざブルマと結婚させ子供を残させ、自身も超サイヤ人にしないといけないということになり、かといって完全な味方にもしにくい。
その辺りと上記してきた「ドラゴンボール争奪戦」という根幹の破壊によって死を迎えたという制度の破壊も相まって、ベジータのキャラクターはどうしたって迷走せざるを得ないのだ
この点に関してはベジータ愛好家の上田啓太が幾分の皮肉と敬愛を込めて論じてくれているので、ぜひ読んでみるといい。

確かに「物語」「心理」としてみれば、ベジータのキャラクターの変遷自体はこの解釈でも間違いではないだろうが、悪く言えばそれはベジータがつまらないありがちキャラになってしまったということではないのか?

サイヤ人編〜ナメック星編のベジータの圧倒的なキャラ立ちは決して悟空たちにとって都合のいい「悪ぶってるが話のわかるいいやつ」にせず、意地でも物語のコマにならない飛び道具だからこその魅力である。
物語から軽やかに離脱したところでそのキャラが想定外の躍動感と面白みをもたらしていたというのに、それが後期になると愛妻家だの何だのと陳腐な設定を付加した結果無難な常識人に成り下がってしまった
魔人ブウ編に特攻をかけるシーンで特に女性ファンは感動するらしいが、死んでも何度も復活可能となってしまったあの世界で初期とは完全な別物と化したベジータがカチコミを決めたからなんだというのか?
私は初期に持っていた「宇宙一という野望のために動くサイヤ人代表」という悪の華をごっそり失ってしまった人造人間編以降のベジータには一切興味がなく、ベジータがつまらないならそら作品全体もつまらんよなと

このベジータの変化をファンは「成長物語」などといっているが、それは単に初期と後期で全く別物になってしまったのを心理的に納得したいから無理矢理「成長」と言い張っているに他ならないであろう。

⑷結局は富野ガンダムと同じ「反形式の形式化」に陥ってしまい、「絵の運動」ではなく「物語」「心理」に帰着してしまう

ネットで私たち原体験世代を含む人たちが思っている「ドラゴンボールはフリーザ編までで終わるべきだった」を検索してみると、やはりそれに対する反証の記事や動画が多い。
だが、やはりほとんどの人たちは「終わらないでくれてよかった」「フリーザ編で終わってしまったらさみしい」といった個人レベルの主観の話に終始してしまっている。
いろんなサイトを見て回ってみたが、結局のところ上記のあでのいや上田啓太をはじめ「ドラゴンボールはフリーザ編までで終わりにすべきだった」に対する客観的かつ具体的な反証を誰もできていない(物語や心理ではなく絵の運動として)
これは暗に誰もが実はナメック星編(フリーザ編)までで終わらせておくべきだったことを奥底では認めていて、でもそれでは心が納得しないから精神的な拠り所を求めているだけではなかろうか。

しかし、これまでに論証してきたように、「絵の運動」として見るあの自由闊達で予想外の魅力があった『ドラゴンボール』は間違いなくナメック星編までだったのである。
そんな根幹が壊れた状態で尚も続けようとした結果人造人間編以降から現在に至る「超」までを含める今の「ドラゴンボールと名乗る別物」を総括すると結局はここに行き着く。

そう、「反形式の形式化」であり「絵の運動」ではなく「物語」「心理」に帰着してしまうことになり、本来なら一度きりしか使えない文法破りをナメック星編までで鳥山明は使い果たした。
それでも続けていこうとした結果無理が生じてしまい、様々なところに歪みが出てしまったのをなんとか整合性をつけようとした結果、もはや反形式が形式化、それどころか形骸化すらしてしまっている

よくファンは「人造人間編以降は物語や設定が矛盾・破綻している」だのいうが、そもそも「ドラゴンボール」は初期〜ナメック星編まで物語上の矛盾・破綻はいくらでもあった
だがそれを超える画力があったし、何より「球の奪い合いによる上昇志向」が根底にあったからこそギリギリのところで一貫性を失わずに勢いを保ってこられたのである。
だから人造人間編以降は実は設定の矛盾や破綻はそれほど多くはないしむしろ整合性は取れているのだが、その代わり「絵の運動」としての根源的な魅力は喪失してしまった
その結果としてナメック星編までに付随としてあったバトル物や修行っといった要素だけを抽出した結果、陳腐な英雄物語に成り下がり、今ある変なシリーズとなってしまったのである。

商業的に食い繋ぎ人気を維持していくことは仕方ないとしても、それは根幹にあった作品そのものの魅力を蔑ろにしてまで続けるべきものであろうか?
人造人間編以降の失速した『ドラゴンボール』を見直すたびにそんな痛ましい思いを誰しもが抱えてしまうのである。

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