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なぜ夢を見る者が笑われるのかは戦後日本の歴史を振り返ればわかる〜『えんとつ町のプペル』の原作を読んで〜

改めて『えんとつ町のプペル』の原作が無料公開されたので読んみたが、これが西野流現代日本の読み解きであることは本人の口からくどいくらいに説明されれいる。
現代人は夢を見ることすら忘れてひたすらに社会に隷属し、夢を見ることも許されず笑われるようになってしまった朽ち果てた世界でどうそれを取り戻すか?という話だ。
だが、これを見ていて思う、西野はきちんと戦後日本がなぜこのような姿になってしまったのかをきちんと理解しているのか?と、歴史を学んでいるのか?と。
この30年ばかりをざっと振り返るだけでも日本人が夢を見ることができなくなった理由はわかるはずであり、正に「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」のである。

非常に雑な見立てではあるが、個人的に思うが戦後日本の歴史を振り返って見ると、本当に夢を見ることができていたのは1980年代までではないだろうか。
あの時代までは人々が夢を持ち、国力を発展させることが人々を正しき未来へ導くことができるという夢を持つことが許されていたのだから。
だが、それがバブル崩壊と冷戦の終結によって敗れ去り、人々はもはや夢を見ることすら叶わず現実と向き合わざるを得なくなった
それが90年代以降の日本の歴史なのだが、西野亮廣がそれを分かっていないとは言わせない、なぜなら彼は私と同じ「プレッシャー世代」だからである。

最後の昭和世代と言われるプレッシャー世代がどんな世代かというと、先人が夢破れるのを背中で見てきたために夢を見ることが馬鹿馬鹿しいと突きつけられた世代だ。
イケイケドンドンの60年代、革命に失敗し挫折した70年代、最後の「デカい夢」を見られた80年代を経た私たちが90年代で経験したのは徹底した超個人主義に基づく内省的な批評である。
戦後日本において90年代ほど既存の社会に対して反抗的で個人の力が集団の力に対して影響力を持ち、それが社会現象になったという例は未だ嘗てないのではなかろうか。
典型的な例がアムラーこと安室奈美恵とキムタクこと木村拓哉の存在であり、この2人は存在自体がグループや職業の垣根を超えてメインカルチャーの象徴にまでなった。

私たちプレッシャー世代はいわゆる「アムラー世代」「キムタク世代」ともいえ、既存の芸能界のあり方に対して異を唱えその定義を根っこから変えたその背中に憧れを持ったのである。
だからこそ90年代後半には安室奈美恵に憧れた女の子たちがギャルのコスプレをしてブイブイ言わせていたし、木村拓哉に憧れた男の子たちがロン毛ファッションを真似したのだ。
00年代初頭から「イケメン俳優」のブームが到来したが、これとてやはり源流はキムタクであり、そのカリスマ性と共にキムタク自体が1つの神話を作り上げたのである。
今の若い人たちはSMAPのこと知らない人も多いから説明していおくと、私たちの世代では木村拓哉と中居正広はその存在自体がもはや伝説だった。

木村拓哉はとにかく出演するドラマが常に高視聴率間違いなしの最強伝説を誇っていたし、中居正広は「ジャニーズ一の司会者」としてバラエティーなど様々な分野を開拓していった。
金スマで松本潤も語っていたが、1996年にSMAPが初めて東京ドームでライブを行った時は本当に衝撃だった、アイドルやアーティストがドームでコンサートをできるなんて夢のまた夢だったからだ。
ポストSMAPとして台頭した嵐だってやはりSMAPの皆さんの活躍があり、ある種その手法を準える形での大成功を収めたわけであり、だがこれは決して「夢を叶える」のではない。
むしろ既成のルールやあり方に対して真正面からぶつかり合い、徹底的に解体して本質を見極め批評して再構築するという作業を90年代の若い人たちが徹底的に行った証である。

スーパー戦隊シリーズでもそうである、『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)〜『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)の10年間は徹底的に「戦隊とは何か?」という現実と向き合った
思えばいまだに私がこの10年間の戦隊を見るたびに心揺さぶられるのは作り手が「戦隊」を根っこから揺るがし格闘し、改めて自分たちなりの「戦隊」というものを作り上げたからである。
そしてそれは「過去」ではなく「現在」としても尚見る者に影響を与え続けているわけだが、とにかく90年代はメインカルチャーもサブカルチャーも徹底した「解体と再構築」の時代だった。
00年代に入るとその90年代が繰り返してきた内省的な批評の上に出来上がった新たなレールの上で、ベンチャー企業が立ち上がるが、これを私は「フレンドリーな緩い集団主義」と読んでいる。

90年代のようなメインカルチャーを象徴する個人は00年代においては現れることはなく、個人よりも集団が幅を利かせるようになっていくが、とりわけ嵐やAKBなどはその典型である。
嵐はよく松本潤の「花より男子」が大ヒットのきっかけといわれているが、松本潤は木村拓哉ほど個が強いわけではなく、やはり「嵐の中の松本潤」というイメージが先に来るだろう。
AKB48の「神7」にしたって今でこそ個々で活躍はしているが、それでも前田敦子にしろ高橋みなみにしろ板野友美にしろかつての安室奈美恵やモーニング娘。の後藤真希ほど個は強くない
それこそジャンプ漫画でも『ONE PIECE』『NARUTO』『テニスの王子様』が台頭するが、これらの作品群もやはり「フレンドリーな緩い集団主義」というベンチャー企業の気質が現れている。

00年代のベンチャー企業の大きな違いは何かというと「叶えられる身近な目標」や「理念への共感」といったことでその形が成り立っており、そこが昭和時代のイケイケドンドンとは違うのだ。
昭和時代は一蓮托生、一度その組織に入ったら終身雇用が当たり前のように鉄の結束で立ち向かい実現していたが、00年代から立ち現われるベンチャー企業はそんな鉄の結束などない。
とりあえず理念に共感して一緒にやってくれれば良くて、だから世界を変えるなんて大それた目標も持たない地元のマイルドヤンキーみたいな小粒化した形の実現になって来る。
ルフィの「海賊王になる」がその典型だが、ルフィは別に海賊王になることで世界の覇権を握りたいわけでもなんでもなく、世界を自分たちの意のままにしようという気もない。

それこそ「NARUTO」にしたってあくまでも木の葉の里を中心にした5つの里の小規模単位の物語であり、かつての「ドラゴンボール」のように宇宙レベルまで話の規模が広がらない。
スーパー戦隊シリーズでも『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)からは「個人の力」より「集団の力」が強くなり、個人の力が戦局に影響を及ぼすことはなくなって来るし守れるものも小さくなる
つまり00年代は規模感を縮小することで実現可能な足元のことから一歩ずつやっていこうという風になり、真の意味で既存の枠と格闘し揺るがすことはない安定期へと入っていく。
だが、それですらも崩れてしまったのが2008年のリーマンショックであり、ここからまた2009年の新型インフルエンザ、2011年の3.11(東日本大震災)と社会的な変化が再びやって来る。

特に3.11は00年代ではまだ信じられていた「集団の力」がもはや何の効力も持たないという現実を突きつけ、ここからはまたもや「個人の力」が台頭することになってきた。
とはいえ、その「個人の力」がかつての90年代におけるアムラー・キムタクのような支配的な影響力を持つことなく、幾分分散された形でのネットインフルエンサーとなる。
YouTuberのヒカキン・はじめしゃちょーは正にそうだし、安定期に入った嵐も例えば「GUTS!」なんかは再び個人主義のような歌を歌っていた。

歌詞を見るとわかるが、「夢を見ることも 容易(たやす)くはないさ」と「夢」を見ることがどれだけ厳しく大変なことかをこのフレーズで批評している。
そして「光の無い 荒野(こうや)を独り いざ行け」と個人主義のフレーズが飛び出し、サビでは「イチニのサンで さあ前を向け 常識なんて吹き飛ばせ」と言い出す。
あれだけ散々現実に打ちのめされてきた筈なのに、夢敗れてきた筈なのに「僕らだけの革命を 夢と希望のパレード 歓(よろこ)びへと舵(かじ)を取れ」と歌うのである。
革命を歌うにしては随分後ろ向きで脱力感満載のメロディーと歌詞で、そもそもこれの主題歌が使われたドラマ「弱くても勝てます」というドラマ自体がそういうものだった。

2010年代から問題になったのは「夢を見ることそのもの」よりも「夢の内容を実現するためのアプローチ」であり、何も真正面から立ち向かうだけが道ではないことを示している。
西野にしたって、2008年の「はねるのトびら」が高視聴率を取った時に既に危機感を覚えていて、だからこそ既存の方法とは違う別ルートで12年かけてここまで上り詰めた。
正にその軌跡を物語にしたのが「えんとつ町のプペル」なのだが、空の上にあるお星様とは打倒すべき目標にしているディズニーのカリカチュアではなかろうか。
だが、昨日も書いたように今の商業主義・拝金主義に走って理念なるものを失って堕落したディズニーに勝ったとしても、それでは試合に勝って勝負に負けるようなものだ。

西野が真に勝たねばならないのは1937年の「白雪姫」をはじめとするウォルト・ディズニーが社運を賭けて戦った時代のディズニー映画の神話ではなかろうか。
かの小津安二郎はその全盛期のディズニーを直で見られた数少ない1人であり、『ファンタジア』を見て「こいつはいけない、相手が悪い、大変な相手とけんかしたと思いましたね」と述べていた。
「非常線の女」「東京物語」「晩春」「麦秋」と数々の傑作を残し、未だに世界中の映画作家に「現在」として影響を与え続ける小津ですら「勝てない」と思ったのがディズニーである。
第二次世界大戦でドンパチをやりながらも尚そのような長編アニメの力作を誇る国力が当時のアメリカにはあったわけであり、作品全体が持ちうる強度は国や時代を超えて尚現在に影響を与え続けている。

つまり何が言いたいかというと、「夢」を見せることができるかどうかはやはり「国力」と比例しており、日本はこのアメリカほどの国力がないというシビアな現実があった。
だからこそ夢を見ては敗れ笑われるという歴史を繰り返してきたわけであり、この歴史を変えるのはそれこそ一旦国が滅ぶくらいの天変地異でも起こらない限りは不可能である。
そんな西野が次回作として作ろうとしている続編がどんな物語になるかはわからないが、とりあえず彼が倒そうとしているのはそれくらい途方もない神話と作品の強度を持った敵なのだ。
それだけは厳然たる事実として断言する。

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