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『殺し屋ネルソン』(1957)感想〜真の名作は「共感」ではなく「驚き」をどれだけ与えられるか?〜

『殺し屋ネルソン』(1957)を何とか親友Fの伝手を借りて見たので感想・批評をば。
先に言っておくと、こんな凄まじい作品が1950年代にあって、しかも映画業界の中で歴史的に殆ど無価値のものと見做されていたのが不思議に思われた。
ただ、いわゆる世間一般でいうところの「感動作」ではないし、また単純な「ピカレスクロマン」と断じる事も出来ない凄まじい迫力が画面に漲っている。
特にラスト5分のあの締め付けられるような、それでいて画面を注視せずにいられない耐え難い何かが存在しており、今までこの映画を見ていなかった自分に後悔と激怒をしている。

評価:S(傑作) 100点中100点

話の構造としては鈴木清順の『東京流れ者』(1966)やそのパロディものである北野武の『ソナチネ』(1993)と似たような、「親分に裏切られた悪党の子分が遠くまで逃げ果せるも、最後は死んでしまう」というもの。
物語としては極めて古典的なギャング映画やクライムアクション・サスペンスものの系譜であるが、オチは読めているにも関わらず息をもつかせぬショットの連続で最後まで目が離せない。
出てくる俳優・女優もぶっちゃけほぼ地味というか、決してハリウッドの王道である美男美女が出てくるような映画ではなく、むしろ「アンチ王道」とさえいえるかもしれない。
主演のミッキー・ルーニーとキャロリン・ジョーンズはどちらかといえばブ男とブスの類のはずだし、関係性も決して良好で綺麗なものだとはいえないだろう。

だが、そんな俳優たちを使ってもしっかり「映画」を成立させてしまうこの凄さは一体どころから来るのかと、そりゃあ蓮實重彦の擁護を抜きにしても本作を見た人は誰しもが思うのではなかろうか。
世の中、これより激しいクライムアクションもサスペンスも、そしてラブロマンスもあるだろうし、単純にマフィア映画で話題作を見たいなら『ゴッド・ファーザー』『グッドフェローズ』を見ればいい。
本作はそうした作品群とも違う、しかし文法的にはきちんとハリウッド映画の基本を押さえて作られていることがそこまでこの年代の映画を熱心に見ているわけではない素人の私にも伝わって来る。
生意気に断言するが、本当に今の若い人たちにこそ是非一度は本作を見て欲しい、他のどの映画にもない異様な迫力や熱気があるから。

以下はあくまで私の個人的感想なので決してこれが正しいというものではないが、一体この映画を見て何を感じたかを可能な範囲で言語化してみよう。

「抱擁」と「接吻」の映画


まず本作で何が印象に残ったかといったら、やっぱり主演2人の「抱擁」「接吻」であり、ギャング映画であるにも関わらず夫婦と偽る恋人同士のラブシーンの方が極めて印象的である。
ドン・シーゲルの作品は本作が初めてなのでどんな特徴があるのかは知らないが、なぜこんなにもしつこいぐらいに犯罪者とその恋人がイチャつく様を見せつけられねばならないのか?と最初は思った。
私は正直いって命を賭けて男がギリギリの葛藤をしながら戦うシーンにラブロマンスを入れられるのは本当は好みではなく、その意味では個人的趣味・嗜好と必ずしも一致するものではない。
しかし、本作のラブシーンは演出が良いとか画になるとかいうレベルを遥かに超えて、一度見たら強烈に脳に焼き付いてしまうほどに「ラブロマンスの映画」という印象が残ってしまう。

冒頭に書いたように、主演の2人は決してハリウッド映画の大作に出て来るような絵になる美男美女ではないし、見ていてちっとも劣情を催すような官能性は湧いてこない。
寧ろラブロマンスですら乾いた印象すら感じるのであるが、それ故にであろうか、最後まで感情移入することもなければ生理的嫌悪感を抱くようなこともないのである。
それは例えば北野映画が徹底して女優をそのような性的魅力のある存在として描かないといったような禁欲的なものとも違うし、かといって伊丹十三の「タンポポ」のようないかにも見せつける感じでもない。
本当に日常的なギャング映画のシーンとしてごく自然に情事に発展しており、またそんな2人の関係性を知っている周囲の者たちも決してそれを煙たがったり冷やかしたりしないのだ。

つまり、ドン・シーゲルという監督にとって男女の色恋というものは決して劇的ではないが、さりとて脇に置くべき邪魔なものでもないといった感じでごく自然に出て来る。
わざとらしい感じが全くなく、まただからといってそれに慣れきっている訳でもなく、寧ろ後半になればなるほど2人の関係性や距離はどんどん近くなっていく。
ラストになると抱擁はともかく接吻をしなくなるのだが、そのことがかえって決して結ばれることはない2人の関係性の消滅というものをごく自然に受け手に見せることができているだろう。
そして最期にギリスは墓の前で「殺してくれ!」と叫び殺してもらうのだが、ギャング映画の中で物語とは直接に関係がなかったはずの2人の恋愛模様がまさかラストシーンに活きてくるとは誰も思うまい。

決して「悪党どもの儚き恋」「悲劇の恋」といったものではなくドライで、しかし要所要所で画面上のサスペンスや迫力を壊すことなくラブシーンを見せていることに驚く。

抒情性をぶった切る簡素なガンアクション


これはもう本作を見た人なら誰もが言及することなので私も触れずにはいられないのだが、本作のアクションとして見所はやはり抒情性をぶった切る簡素なガンアクションであろうか。
確かに蓮實重彦が指摘した通り、ドン・シーゲルが階段のところから真っ黒なアップと共に銃を抜くところからして銃がいきなり現れて撃たれた者の命をあっという間に奪ってしまう。
それでいて余韻を決して残すことなく乾いていて、これが後年更に洗練された形で北野武や黒沢清などが開花させていくガンアクションなのかと思ってしまったほど。
まあそんな風に思うのは私だけかもしれないが、事によるとこういう抒情性をぶった切るガンアクションの生々しさを受け手のインパクトに残したという意味で本作は間違いなく歴史に残る作品だと思う。

片手で握るサイレンサーや拳銃にしろ、両手で持つ機関銃にしろ、ギリスが銃を手にした途端にそこは凄まじい暴力性が生じながらも、決して無駄に貯めたり間を置いたりせずあっさり撃って終わりである。
いわゆるスローモーションや発射するときの光といったところにも頼らず、本当にただ撃って死んでそれでおしまいというものであり、思い入れも何もあったものではない。
しかもギリスは終盤になると完全に疑心暗鬼に陥っており顔つきからも精神が限界に来ていることから、たまたま自分が隠れているところに子供2人が迷い込んだのを撃ち殺そうとしていた。
もちろん無辜の者を殺すような真似はしないのだが、見ている側はいつこの男がその機関銃をぶっ放すか分かったものではない恐ろしさがこれ以上なく画面の上で表象されている。

これはどのシーンにおいてもそうであり、唯一最期のシーンの部分だけはやや余韻が残るようなシークェンスにしてあるが、それはたまたま急所を外れていたために即死しなかっただけである。
しかも他の仕事仲間が女に手を出そうとしただけで防弾チョッキがあったとはいえ撃ち殺そうとするなど沸点も低く、それもまた尖った魅力となっていた。
はっきりいって本作のほとんどは上記のラブシーンとガンアクション、そしてカーチェイスで83分が成り立っているといっても過言ではない。
とにかく登場人物がよく動くし、基本的に止まっているシーンがあまりないためガンアクションも流れるように違和感なく出て来てさっと消えていくのである。

ミッキー・ルーニーの強靭な色気


そして何よりも本作を見ていて私が感じ取ったのは主演のミッキー・ルーニーの強靭な色気であり、小柄で文字通りの「童顔(baby face)」ながらもラストまで見るとこの男の顔や動きが強烈に印象に残る。
この時代のハリウッド映画の主演は基本的に美男子が主流だったのだが、本作のルーニーはジェイムズ・キャグニーやジョー・ペシのような小柄な体格に少し横に太い体格なのに、その全ての挙動が面白い。
北野武が「可愛さと凶暴さと、そういう人と違う突出した魅力や色気がふとした瞬間にちょっと出る人が僕は粋だと思う」と東京国際映画祭のシンポジウムで語っていたが、ルーニーは正にそんな人ではなかろうか。
はっきり言ってギリス自体は性格も挙動も全てがトチ狂っていて、本当に頭のネジが全部外れていないとこんな凶暴なことはできないというくらいにやることなすことの全てが悪のそれである。

だから一切共感も理解もできないし、ラストで滅んでいく様も物語の帰結としてはそれ以外にあり得ないわけだが、そんな物語の部分には到底収まりきらない強靭な色気は何なのだろう?
これはビートたけしが映画俳優・監督の北野武に変貌した瞬間に寡黙になるのとは違い、むしろ大体のシーンで凶暴性を露わにしているし、その凶暴さを知性でコントロールしている印象もない。
決して知的でクールな策士でもなく、かといって反骨精神が強いライバルキャラといったような造形でもなくサイコパスのような人格破綻者というわけでもない、とにかくこれという説明がつかないのである。
だが、そういう類型的な性格や説明がなくてもミッキー・ルーニーという役者が演じるだけでこんなにも異様な生々しさと緊張感が画面に漲るのかと思わせてしまうほどの力があるのだ。

それはいわゆる「演技力が高い」とか「演出が素晴らしい」とかいったことではなく、確かにこの映画の主演はルーニー以外に考えられないと思わせる何かがあり、それが私の感性を刺激する。
当たり役・嵌まり役というありがちな言葉で片付けるわけではないが、とにかくルーニーの振る舞いや仕草の1つ1つが被写体として完璧であり、似合わないはずのスーツやハットにも違和感が全くない。
他の役者が演じていたとしたら野暮だったりダサかったりするような人物像をしっかり画面の運動としてそこに定着させ、かといって見る者に共感や感動させることは徹底的に拒絶している
女と2人だからこそというものがあるが、見れば見るほど惹きつけられるにも関わらず、仲間と一緒にいるにも関わらずどこか乾いた切なさや孤独を身に纏っているようにも感じられるのだ。

私も様々な映画俳優・女優を見て来たが、ミッキー・ルーニーの本作における色気は今まで見て来た中でも断トツであると断言できる。

速すぎることも遅すぎることもないカーチェイスとラストシーンへの怒涛の流れ


そして本作のラブシーン、ガンアクションと並ぶ3つ目の見所であるカーチェイスだが、音楽やカメラワークもあってか緊張感こそあるものの、決してそれが速すぎることも遅すぎることもない
むしろ一定の速度と距離感で流れていくわけであるが、それにもかかわらずただ速いだけのカーチェイスよりも迫力があるように感じられてしまうのが改めての驚きである。
カーチェイス自体が魅力的というと、たとえばスピルバーグ監督の『激突』が挙げられるが、あれはただひたすらに車の追いかけっこで持たせている映画だ
最後まで追いかけてくる巨大トラックの運転手が誰なのかもわからないまま、ただ唐突かつ理不尽な逃走劇を見せており、あれは「正体不明の怖さ」が前提にある。

しかし本作のカーチェイスは決してそのような類のものではなく、あくまでもクライムアクションの一環として描かれており、またチェイス自体にドラマ性があるわけでもない。
つまりラブシーンやガンアクション同様にこれもまたまるで日常の風景のようにして撮られており、そのことがむしろ不安や緊張感を煽るのではないだろうか。
決して簡単に追いつかれることなどないと、何と無くギリギリまで逃げ切るであろうことはわかっているのに、それでもハラハラせずにはいられないのである。
この異様な迫力が果たしてどこから生まれるのか、決して物語それ自体ではないし、また役者の演技や演出といったようなものでもない。

とにかく理由が何であれ、この速すぎず遅すぎずの等間隔で撮られているカーチェイスもまた後半に向けてどんどん迫力が増していく
特にラスト5分のカーチェイスは警官のバリケードすらもぶち破って進み、最期は2人を射殺しつつも銃弾を食らって倒れてしまう。
もう後はないと誰もがわかっていながら、それでもギリギリのところで受け手に感情移入させないように敢えてルーニーにキャメラが寄っていくのだ。
そのことが逆説的にラストの「THE END」のカットの異様さを際立たせており、とにかく「凄まじい映画を見た」という言葉しか残らなくなるのである。

私がサブカルチャーに求めているものは「共感」ではなく「驚き」である


本作を見ていて改めて私がサブカルチャーに求めているものがはっきりした、やはり「共感」ではなく「驚き」であると。
これは決して蓮實の影響でも何でもなく小さい頃からそうだったのだが、人が作品を見て純粋に感動するのは決して「泣ける」からでも「共感できる」からでもない。
その作品が感じさせ視聴者に突きつけてくる「驚き」であり、思えば私がスーパー戦隊シリーズをはじめ映画でも何でも名作・傑作扱いしているものはだいたいそれが一番先に来るものである。
昔からそうだが、私は作品を見て感動して泣いたことは一回もないし、それは決して今後もないであろうことを本作を見て改めて実感した。

近年はどうも『君の名は。』に代表される感度作が人気のようだし、劇場版『鬼滅の刃無限列車編』もお涙頂戴の安っぽい感動の共有ができるものが人気のようだ。
だが、私はそのような感動を誰かと共有したいわけではないし、むしろそんな程度に収まってしまうような作品なんて人生に必要ないし求めてもいない
最近評判が高く再見の意味も込めて名作・傑作扱いされている作品群ばかりを見ていて、もうある程度見尽くしたと思っていたが、それを本作がいい具合に打破してくれた。
決して万人受けはしないし見ることを推奨もしないが、見ることで確実に感性が揺さぶられ筆舌に尽くし難い迫力と衝撃を時代や国を超えて叩きつけて来る「傑作」であろう。

改めて今回の映画を見る機会を与えてくれた往年の親友Fに対し深い感謝を申し上げる。

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