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『ドラゴンボール』のピークがナメック星編(フリーザ編)までだと思う理由についてその3(完結)〜初期から提示してきた絵の運動が作品の根幹を破壊したフリーザ戦〜

さて、『ドラゴンボール』の記事も今回がひとまずの完結となるわけだが、これまでに語ってきたことをまとめて振り返っておこう。
まず最初の記事ではナメック星編までの『ドラゴンボール』のどこに魅力があるのかを以下の4つのポイントから語った。

  • そもそも『ドラゴンボール』とは「球の奪い合いによる上昇志向」を根幹として展開される話である

  • 初期の頃は『Dr.スランプ』に顕著だったポップでアバンギャルドな絵柄と省略の技法が特徴的である

  • ピッコロ大魔王編からは「死ぬこと」と隣接する「怒ること」という主題が導入される

  • 修行シーンはあくまでも「足りないもの」を補うための手段であり目的ではない

そして2回目の記事ではそこからさらに踏み込んだ応用の話へと入ったが、そこでは以下のことを論じている。

  • 鳥山明は衣装と髪型を場面や状況に応じて物語とは関係ないところで遊ぶ過激な作家である

  • サイヤ人編から登場した「戦闘力の数値化」はあくまでブラフであって本質的な強さは「絵の運動」で示される

  • サイヤ人編最初のラディッツ戦と最後のベジータ戦の戦闘は物語上の論理的矛盾を画力でねじ伏せる文法破りである

  • ナメック星編のベジータは物語に従属しない自由闊達な悪の魅力があり、孫悟空やクリリン達の味方ではない

こうして見ていくと、ナメック星編までの『ドラゴンボール』はどこまでも従来のジャンプ漫画に対するイレギュラーと掟破りを繰り返しながら展開してきた独自性が強い作品だと分かるだろう。
球の奪い合いによる上昇志向」を根幹の要素としてギャグ・冒険・バトル・修行といったジャンプ漫画でファンが好む要素を盛り付けながら、従来の作品に対する様々な破壊を試みてきた。
その上で今回は『ドラゴンボール』という作品の実質の完結であると同時に「死」「終焉」をも描いたピークであるフリーザ戦がどのようなものであったかを「絵の運動」として見ていこう。
『ドラゴンボール』のみならずジャンプ漫画全体の歴史の中でも伝説として語り継がれているのあの死闘がどのようなものであったかを改めてきちんと批評しておかねばなるまい。

なお、これで三度目の注意となしてお断りしておくが、この記事で題材として扱うのは鳥山明先生の原作漫画の初期〜ナメック星編までのみとする。
それをアニメ化した無印及び「Z」や、そのスピンオフとして作られている大量の劇場版ならびに原作漫画の人造人間編〜魔人ブウ編以降に関するものは「後付け」として一切考慮しない
以前に書いた記事とは評価軸の全く違うものとなるであろうことも考えが変化した結果としてここに記しておくので、「以前に書いたことと矛盾しているじゃないか」という指摘には対応しない。

⑴フリーザ戦は実は物語の展開上描かなくてもいいはずの付随的な要素である


まずフリーザ戦について語る上で述べておかなければならないことは、フリーザ戦はそれ自体物語上の必然性がある戦いでは決してないということである。
意外とこの点に触れない読者が多いのだが、従来のジャンプ漫画の文法的には確かにフリーザと悟空達は戦った方が納得度は高いしお約束のレールに沿っているといえるだろう。
だが、『ドラゴンボール』という作品においては必ずしも戦闘自体は「主」ではなく「従」であり、根幹にあるのは「ドラゴンボール争奪戦」という本質を忘れていやしまいか?
ナメック星編は悟空達地球人サイド、フリーザ軍達悪役サイド、そして第三勢力のベジータという三つ巴で話が展開されるという、後にも先にも類を見ない展開である。

だが、その根幹にあるのは初期から形を変えて用いられてきた「球の奪い合いによる上昇志向」であり、目的は違えどナメック星のドラゴンボールが大事だという点は変わらなかった。
地球人達は地球の神様とピッコロ・ドラゴンボールを復活させ、その復活させた地球のドラゴンボールでナッパ達サイヤ人に殺されたZ戦士を含む無辜の地球人達を復活させるのが目的である。
そしてフリーザとベジータはナメック星のドラゴンボールを永遠の命を得て宇宙一になるという野望のために手に入れることを目的として暗躍していたのだが、はっきり言ってこれ自体に面白みはない。
物語としては通俗的でさしたる面白味もないものを、ベジータという物語に従属しない第三勢力にかき乱してもらうことによって予想だにしない独特の緊張感と躍動感が面白さとして生まれる

孫悟空がもはやサイヤ人編の後半辺りから自由闊達に動くプレイヤーというよりいざという時のみ戦うフィニッシャー(真打)としての役どころを任されており、物語としてのヒーロー性で制約されていく。
その悟空が自由に動けなくなった代わりとしてベジータに好き勝手動いてもらい、悟空だったら殺すのを躊躇してしまうフリーザ軍の眷属達をほぼ全てベジータに倒してもらうとい構図になっている。
しかし、だからといってベジータを安易な仲間にするのではない、つまり「敵の敵は味方」という従来の作品にありがちな呉越同舟の構造とは一線を画すことによって安易な共闘にはしていない。
だからベジータは地球人組を出し抜くこともあれば、悟飯たちもまたベジータを出し抜くこともあり、だからフリーザと戦う時もやはり微妙にベジータは地球人サイドには染まり切らないのである。

実際に悟空とベジータがナメック星編で同じ場所にいて会話をすることはあっても、力を合わせ意気投合して「みんなでGO!」みたいな安い友情ものにはしていないのである(ジャンプ漫画はこういう展開を多用しがち)
むしろお互いに嫌悪している中でたまたまお互いの利害関係が一致してフリーザが邪魔だから戦って倒すということに他ならず、最後まで悟空とベジータが共闘する瞬間は一切ない
そしてフリーザとしてもまた悟空達が自分の野望を達成する上で邪魔であり、特に悟空とベジータらサイヤ人が気に食わないから殺すというだけで、それ以外に戦う理由はないのである。
確かに物語上で見ればフリーザと悟空・ベジータは憎み合う相容れない関係ではあるが、ではわざわざ真正面から戦わないといけないほどの因縁かと言われればそうでもない

その点において、原作漫画におけるフリーザ戦自体が本来ならば描かれなくても良かったはずの展開だったのは誰の目にも明らかだが、「ドラゴンボール」が真に面白いのはむしろ物語とは直接関係がない部分だ。

⑵文法破りとして示されるフリーザ様の3つの進化形態


さて、まずはナメック星編のクライマックスとして描かれるフリーザ戦だが、このフリーザ戦も一見ジャンプ漫画の王道に沿っているようでいて実は微妙に違う2つ目の文法破りを提示している
それはフリーザの3つの進化形態だが、第一形態からして「戦闘力53万」であるということが台詞で示されるが、前回も述べたようにこのセリフ自体に大きな意味はない。
台詞で言わなくてもフリーザは指先から放つデスビーム1つで簡単にどんな命であろうと弄ぶことができ、本気を出さずともナメック星人の戦士タイプを完封してしまえる強さを持つ。
単純な戦闘力だけでいえば、強化前の悟空・ベジータ・ピッコロより高い戦闘力を持つネイルを本来の力の10%を出さずとも倒せるのだが、更に3つもの変身形態がある。


この3つの変身形態だが、改めて見直すと実に奇妙にして面白く、一番強そうに見える第二形態を最初の進化として描き、そして最も弱そうに見える丸い最終形態を最後に持ってきている
第三形態はちょうど中間の形態なのでいいとして、普通に考えれば並の作家やジャンプ作品、ポケモンやデジモンといったものであれば通常は第二形態と最終形態のデザインを逆にするだろう。
要するに最初の進化でやや大きくなりつつもスマートにし、第三形態をその次の進化として描き、そして最終的にコルド大王に最も近い第二形態を最終形態として設定するはずだ。
しかし、鳥山明はピッコロ大魔王編から一貫してその逆張りを行っており、小さい奴こそが実はとんでもなく強い要注意人物というのを(餃子と天津飯などを除いて)一貫させている。

最初にまず如何にも強そうな見た目の第二形態を持ってきてピッコロに無双させ、第三形態でそのピッコロをパワー・スピードで圧倒させ、そして更に最終形態で孫悟空・ベジータすら圧倒してしまう。
ピッコロ大魔王編もいかにも強そうなタンバリン達よりもピッコロ大魔王の方が圧倒的に強く、サイヤ人編も身長の高いナッパ・ラディッツよりもチビのM字ハゲのベジータの方が強いと示すのである。
それはフリーザ軍でも同じであり、フリーザと同じ進化形態を持つザーボンと太っちょのドドリア、更にギニュー特戦隊といかにも強そうな奴らを前哨戦として悟空とベジータに戦わせていた。
しかし、その眷属達よりも体格がはるかに小さいはずのフリーザこそが実は修行や努力、気の探り合いといった余計なことをしなくても完成しており、後述する超サイヤ人の登場までその牙城が崩れない。

というか、本来ならフリーザはわざわざ最終形態にならずとも第三形態のままで十分に圧倒できたところをわざわざ最終形態に進化するという特別サービスであそこまで見せたのである。
そしてその最終形態の恐ろしさを何によって鳥山明は示したのかというと、それまで第三勢力として暗躍させ悟空と同じくらいに強さを極めたベジータに絶望と悲しみの涙を流させる形で示した。

ここもやはりベジータが涙を流す必要はなく物語の論理的整合性で見れば違和感でしかないのだが、悟空以上の天才戦士としての格を保ったベジータが絶望することでフリーザの脅威が逆説的に伝わるのである。
あのベジータですらどうにもならない、界王様が「フリーザにだけは手を出すな!」と言わしめた存在だというのが決してブラフでないことをこの1シーンで絵の運動として効果的に伝えたのだ。

そこまで描いていけばいくほどどんどん絵の運動は暴走していき、もはや物語からは完全に離れたこのフリーザ戦が劇中でも異例の展開として読者の感性を揺さぶることになる。

⑶ベジータの死に全く心を傷めない悟空がクリリンの二度目の死に憤怒する理由


ここまででフリーザ戦の展開とフリーザの変身形態がこれまで作品として展開してきた「文法破り」を過剰に暴走させており、物語から離れたものとして暴走していったものであることがわかる。
そしていよいよ絶望したベジータは最期に読者の予想を裏切る形であっさりとフリーザに殺されるのだが、ここでまず鳥山明はベジータの死という形で読者の心理を殺しにかかった。
あくまで主人公は悟空なのだが、その悟空がフィニッシャーとして登場するまで実質の裏主人公のようにして生き生きと動かしてきたベジータをわざわざ鳥山明は死なせたのである。
だが、このベジータの最期を悟空が悲しんだのかといえば決してそうではない、ベジータが涙を流して悟空に「倒してくれ」と託したにも関わらず、悟空はそこまで感傷的にはならない。

「おめえのことは大嫌いだったが、サイヤ人の誇りは持っていた。オラも少しだけ分けてもらう」というセリフは一見殊勝なようでいて、実は悟空自身はベジータから影響を受けていないのである。
確かに「サイヤ人の誇り」なるものに対して悟空は一定の理解は示した、しかしベジータの生き様や人間性・考え方・行為といったものに悟空は微塵も共感していない
だからベジータの死はあくまでも悟空とフリーザという本命を描くための1つの契機にしかなっておらず、ここにおいて改めて「死ぬこと」の主題が再び浮上する。
『ドラゴンボール』においては死ぬことなんて日常茶飯事だが、それにさしたるドラマ性がもたらされないのは一度きりならドラゴンボールで復活できることが根幹に提示されているからだ。

そんな悟空がフリーザとの本対決を始めるのだが、いくら真打で登場してベジータ以上の戦いぶりを見せる悟空であっても、やはりフリーザという壁を簡単に超えることはできない。
ベジータ戦の時には辛うじて通用した界王拳も界王拳かめはめ波も元気玉も、あらゆる手札を切った上でなおフリーザには届かず、戦局をひっくり返す決定打とはならないのだ。
あの悟空が「くそったれ!」なんて心の中で叫ぶほどだから、改めてフリーザの絶望的な強さの前に読者の誰もが緊張感と諦念を抱かずにはおれないであろう。
そんな中、フリーザが悟空の目の前でもたらした「クリリンの死」に対して悟空はピッコロ大魔王編とは比べ物にならないほどの憤怒を見せるが、これが実は後期まで含めても異例中の異例なのである。

リアルタイムで本誌を追っていた私はもちろん後から入ってきた誰にとっても、ここで孫悟空がかつてないほどの怒りを露わにして超サイヤ人へ覚醒することに対し驚きとともに違和感があるのではなかろうか。
以前にある人が「正義感として出てくるには唐突」といっていたが、ここでの悟空の怒りは決して正義感や仲間のためといったものではなく、どちらかといえば怒りによって誘発された戦闘民族の闘争本能である。
そしてまた、この時悟空の髪の毛は完全に逆立って金髪となっており、また上半身も裸でボロボロになるのだが、物語や心理といったところでこの悟空の怒りについて議論しても然程意味はない。
この点に関してBixはアニメ「たったひとりの最終決戦」のバーダックの描写を基に「サイヤ人の誇り・意地」といったところによる意味解釈を行っており、これがなかなか優秀な解説である。

だが、私が改めてこの流れを「絵の運動」という観点から批評した時、その「サイヤ人としての闘争本能」とは別の観点から超サイヤ人・孫悟空についての批評が可能だ。

⑷全ての主題が1つのカタルシスとして集約する超サイヤ人・孫悟空


超サイヤ人・孫悟空がなぜあらゆる漫画・アニメの覚醒の中でも伝説として語り継がれているかといえば、それは物語的な整合性やキャラ描写の心理とも違う「絵の運動」それ自体によってではなかろうか。
まず物語的な観点から言えばあの悟空の怒りはどうしたって矛盾しているのだが、それを主題に当てはめるのならばクリリンの死によって、根幹にあった「球の奪い合いによる上昇志向」が破壊されたのである。
これに関してはもう既にある方がブログで解説しており、それが非常によくできた解説なので、ぜひともここで取り上げておこう。特にこの解説が秀逸である。

二回死んだ者は生き返らせることができない。つまりクリリンは、(自分から生き返りを拒否した悟空の育ての父である孫悟飯を除けば)初めてドラゴンボールで救うことのできない存在となった。このような、今まで物語を駆動してきたDBシステムからこぼれ落ちた存在が出てきた(ルールからの逸脱が生じた)ことで、ベジータでさえ生かした悟空が初めて「キレる」、というこれまたルールからの逸脱が生じた(これは余談だが、悟飯がキレるととんでもない戦闘力を発揮する様が度々描写されてきたが、悟空がそういう力を発揮するシーンは不思議なほどなかった。その意味で悟空の怒りは、その特異性を読者に意識はさせながらも、ご都合主義的とは思わせない説得力も同時にあったと言える)。

死んで当然の悪役を別とすれば、『ドラゴンボール』における死人復活は『ドラゴンクエスト』の神父やザオリク、また『ファイナルファンタジー』のレイズ・アレイズのような復活魔法の代わりにドラゴンボールで行われる。
だが、それも安易な御都合主義と化すないように物語としては「基本的に一度しか蘇生できない」という厳しいルールを制度として設けておく必要があり、これがあることで決して命を軽んじることをしていない。
その極めてシビアなドラゴンボールの死人復活というルールから除外された存在がナメック星編で2度目の死を遂げたクリリンであり、それを超サイヤ人・孫悟空の奇跡的な覚醒と憤怒という絵の運動として示す。
しかもこの超サイヤ人の描写の髪の毛が逆立つ演出や人格が荒々しくなるところといったものが実は初期からこれまでに提示してきた主題を1つのカタルシスとして集約させているといっても過言ではない。

逆立った髪の毛と荒々しいサイヤ人としての闘争本能はベジータのそれを、そして普段とは全く違う不良のオラオラに豹変する要素は初期のランチさんが持っていたものを繰り返し用いている。
更に天下一武道会のマジュニア戦、サイヤ人編のベジータ戦と同じように上半身の服が最終的に破けた状況で戦うというのもやはり極限の戦いであることの表象としてまた特徴的だ。
そして孫悟飯が自身のキャラの個性として持っていた「怒りによって戦闘力を増幅させること」という特徴をこの時の悟空に例外的な特権として用いているのもまた再利用している。
また最終的に戦闘力が1億まで到達していながら、それが数値化されるのではなく絵の運動として視覚的に示されることも含め、この1シーンにこれまで鳥山明が提示してきた要素が1つの極みに到達した。

その上でそれまでの『ドラゴンボール』の根幹であったドラマツルギーとでも呼ぶべき要素が破壊され、そして孫悟空が地球人ではなく「サイヤ人」へと変質するというところへ逸脱する。
そしてそれはドラゴンボールのルーツであるナメック星の消滅=星そのものの破壊という絵とともに作られ、それまで続いた逆張りによる文法破りが最終的には『ドラゴンボール』という作品そのものをも破壊した

だからナメック星編のラストは何かと言えば作品としての『ドラゴンボール』が実質の終焉=死を迎え、これ以上の物語も絵の運動も継続できないことを今なお読者に突きつけるのである。
ここまで語ってきたことからもうおわかりだろうが、ナメック星編が『ドラゴンボール』の作品としてのピークだというのは決してリアタイ世代の懐古主義じみた頑迷ではない

今回までを一応の完結として、余談で人造人間編と魔人ブウ編のどこがいけないのかを改めて書いてみたいが、これは気が向いた時に書こうと思う。

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