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『大日本人』感想〜松本人志が「ポスト北野武」になり得なかった理由が一目瞭然の駄作〜

昨日の中田敦彦の記事を書いたこともあり、世間からは酷評されている松本人志の映画をまだ見たことないと思い、処女作の『大日本人』を鑑賞したので感想・批評をば。

評価:F(駄作) 100点中0点

はっきり言って世界の北野はもちろんだが、そもそもなぜ日本映画は松本人志なんぞに映画を作らせたのかがさっぱり理解できない超駄作であり、理解に苦しむ。
お笑い芸人上がりの映画作家の全てがダメだとはいわないが、結局世界に通用するレベルのショット・映画を撮れているのは北野武だけではないか。
西野亮廣は以前も述べたように映画作家ではなく売れる仕組みを作るマーケターなので除外するとして、本当にお笑い芸人が安易な勘違いで映画を作るなと言いたい。

松本人志にしろ品川ヒロシにしろ、彼らはあくまで「コメディアン」であって天性の「映像作家」ではないのに、「自分たちは映画も作れます」などという傲慢さが画面に滲み出ている
わけても松本人志に関していうならば、そもそもこの人はテレビで十分大成功を収めているのだから映画なんて作らなくていいのに、なぜ現在まで4作も作ってしまったのか?
お笑いのセンスという一芸で十分食っていけるのだから分相応に振る舞えばいいのに、なぜ自分は北野武みたいにアートもできる多才(多彩)な人だと勘違いしたのか、真意はわからない。
だが、本作はお話はもちろんのことどこにも「おお!」と思える瞬間が全くないのでやっつけるのも可哀想なのだが、とりあえず何が悪かったかを具体的に述べていこう。

ロン毛が全く様にならない松本人志

まず冒頭の5分で私は面食らってしまったのだが、ロン毛姿の松本人志が全く様にならず、テレビとの悪い意味でのギャップに大笑いを通り越して薄ら寒い感じすらした
何を思って今の若手イケメン俳優風のルックスにしたのかはしらないが、そもそも松本人志のあの顔でこの風貌は無理があるし、どこを切り取っても全く美しくない。
映画作家にとって大事なことは「被写体の距離感と写し方」なのだが、松本人志はその辺り自分に対しても他者に対しても全く写し方に愛が感じられないのだ。
別にそれはモデルみたいにカッコ良く撮れとか色気を無理矢理に出せとかいうことではなく、とにかく被写体が立ってるだけでも様になるような画を撮って欲しい。

だらだら歩く様もおそらくは北野武の処女作「その男、凶暴につき」のオマージュのつもりであろうが、北野武が歩くのと松本人志が歩くのでは色気(存在感)が全く異なる
「その男」も確かに映画のほとんどが北野武演じる刑事が歩くシーンが占めているが、カメラは基本的に見やすいように固定されているし、またあのぶっきらぼうな歩き方だけで絵になってしまう。
対して松本人志が演じる大佐藤は取材という設定になっているのもあるのだが、歩くシーンもそうだがずっとべったり貼りつくような撮り方ばかりをしていて、逆に色気か消失している。
また、写し方も工夫がなく、ほとんどが至近距離で撮っているので引きで撮った時も様にならないし、後述するシーンもほとんど全てアップで撮ってしまっているのだ。

要するに何が言いたいのかというと、「下品な画面」になってしまっていて、しかも妙に演技しようとするものだから自然な感じが全くなく面白みに欠ける。
北野武はもちろん、例えば小津安二郎やヒッチコックも俳優に過剰な演技をさせないのだが、それは決して役者が大根演技だとかいうことではない。
あくまで「画として成立するかどうか」という被写体としての美しさを問題にしているから、映画ではむしろあまり演技をしない方がいいのである、舞台じゃないんだから。
ところが、松本人志はそんな映画人をやる上で大切なことを全くわかっておらず、単にテレビの延長線上で映画がやれるという錯覚を起こしてしまったのであろう。

それがあのクソダサいロン毛に私服という誤った似非昭和のビジュアルに現れており、幾ら何でもこのビジュアルはそもそも古すぎる。

モキュメンタリーなのはいいが、全く持たない

一点目と深く関連することだが、本作はドキュメンタリー風=モキュメンタリーが問題なのではなく、とにかく松本人志だけで持たせることができないのである。
それこそ同じモキュメンタリーをよくやる黒沢清の『旅のおわり世界のはじまり』(2018)と比較してみると、出来の差は一目瞭然だろう。
黒沢清は前田敦子だけで2時間を持たせてしまい、本当にウズベキスタンをただ前田敦子が回っているだけで簡単に映画にしてしまった。
まあ映画女優としての前田敦子が素晴らしいのはもちろんのこと、何よりも被写体に対する愛と距離感、ライティング(照明)が抜群にいい

もともと映画とはドキュメンタリーから始まったのだから、絵のタッチや演出しようとしていることそのものは悪くないし、生理的嫌悪感はない。
だが、上記したようにロン毛の松本人志が演じる大佐藤が全く絵にならないので、ひたすらショットになり切らない画面だけが延々と続く
公開当時は終盤になる前に退室してしまう客が多かったらしいが、私だったらおそらく10分で損切りしていただろうから、劇場で見なくてよかった。
猫に関してもそうであり、これが例えば黒沢清ならもっと美しく猫を撮ったかもしれないが、松本人志は猫に対してすら全く愛着が持てないようだ。

バイクに乗っているシーンもそうだし変身後もそうなのだが、松本人志はあくまで「テレビ」の人であって「映画人」ではないという事実が明らかになってしまった。
やはり大画面でこそ映える人とそうではない人というのはある程度天性で決まっているのではなかろうか、残酷だがそれが現実なのである。
だからこそテレビ上がりの芸人として唯一世界レベルになれた北野武(ビートたけし)は日本の映画史において異例中の異例なのだと実感させられる次第だ。
あのどこか俗っぽさが貼り付いている感情はテレビで仕上げてきた感じであり、映画人から直接に薫陶を受けて育ってきたという感じがまるでない。

特撮への愛が全く感じられないCGで表現される大日本人

これは映画ファンとしてというよりも特撮ファンとしてであるが、大日本人と獣の戦いをCGで表現してしまったのは特撮に対する愛がまったく感じられない
カメラワークも下手だし獣たちのデザインのセンスも、アクションシーンも散々見慣れてきたものの劣化コピーであり、「大怪獣の後始末」や実写版「デビルマン」と大差ないつまらなさだ。
特に大日本人は顔がまんま松本人志なのにも関わらず、動きも体もCGで表現してしまっており、これじゃあ特撮であることの意味はまったくないではないか。
そもそも日本の特撮がなぜ素晴らしいかというと、生身の人間が着ぐるみで想定外の動きをしてみせるからであり、しかも変身後の顔まで曝け出しているのだから尚更だ。

終盤の「ここからは実写でご覧ください」とかいうテロップも明らかに不要だし、また大佐藤の「世間から疎まれている伝説の英雄の末裔」というのも特に意外性はない。
松本人志が円谷プロ信仰者であることは自身も公言していたしそれを撮るのも構わないが、それだったらもっと愛と情熱を込めて本格的に美しく撮れと言いたくなってしまう。
樋口真嗣なんぞはその点「シン・ゴジラ」にしても「シン・ウルトラマン」にしてもCGを使っていたにもかかわらず、違和感のない画としてしっかり演出していたではないか。
まあゴジラもウルトラマンも着ぐるみの初代の方がやはりカッコいいのだが、松本人志は映画人ではないというだけではなく特撮そのものに対しても見下している。

特撮でパロディをやるなとは言わないが、やるにしたって技量が必要となってくるわけであり、例えば浦沢義雄がやっていた「激走戦隊カーレンジャー」はいい例だ。
あれは従来の戦隊シリーズも含めた特撮作品に対する皮肉・風刺が散りばめられていたが「画面の運動」としては文句なしの高いクオリティーに仕上がっている。
つまりパロディというのは決してそのジャンルを粗末に扱うことではなく、むしろ愛とリスペクトを持って破壊と再生を行い構造を受け手に知らしめるところが面白いのだ。
それすらわからずに、テレビで培ったバラエティー番組の文法を映画や特撮というジャンルに持ち込んで茶化すというのをやっただけのことである。

漫談やパロディがやりたければテレビのバラエティでやれ

そしてこれはもう極め付けの文句になってしまうが、単純な漫談やパロディがやりたければ吉本劇場かテレビのバラエティ番組でやれと言いたくなる、ガキ使で十分じゃないか。
私がこの映画で一番気に食わなかったのは松本人志がテレビの延長線上でひたすら喋り続けていることであり、要するに説明的過ぎるのである。
といってそこに落語や漫談みたいな面白みがあるわけでもないし、その語り口が映画として面白さになっているわけでもない、つまり「映画」になっていないのだ
映画はあくまで「画面」で語りかけるからこそ面白いわけであって、単に物語を語るだけなら小説やテレビドラマといったもので十分ではないか。

そもそも松本人志は本作を作るに当たって先達の北野映画をはじめとする映画をきちんと勉強・研究したという痕跡が全く伺えない。
なぜテレビであれだけしゃべるビートたけしが北野武という映画作家になった瞬間にあんなに寡黙になるかというと、喋り過ぎると説明的になってしまうからだ。
だからこそ映画ではとにかく喋らず最小限のアクション・身振り手振りだけで画面を成立させるという経済性を何よりも重視している。
しかし、そのことがまるでわかっていない松本人志はテレビと同じような調子で喋り続けてしまい、結果として煩雑で締まりが無い印象を与えてしまった。

単純に喋りたいだけならばラジオやテレビのバラエティ番組などで十分喋れるわけだし、それで十分受けているのだからそれでいい。
そもそもサイレント映画の時代には字幕はあったとしても声で演技することは不可能だったのだから、いかに喋らずに身体や画面の連鎖で演技するかが肝だった。
しかし、ナラティブフィルム(物語映画)が1つのあり方として確立してしまってからは邦画・洋画を問わず説明過多になるきらいがあるようだ。
そしてそれはテレビが情報として説明し過ぎてしまうことから生じた弊害でもあるだろう。

映画において一番大事なのは「ショット」が撮れるか否か

本作を見ていると「映画において何が大事か?」が端的に反面教師として突きつけられたわけだが、映画において一番大事なのは「ショット」が撮れるか否かにある。
結局松本人志にしろ品川ヒロシにしろ、お笑い芸人上がりの連中が「ポスト北野武」になり得なかったのはまさにこの「ショット」が撮れないことに尽きるのではないか。
映画人としての才能もセンスもないテレビ畑で育った人間がその延長線上で自分もやれるなどと勘違いしてしまいつけ上がった結果がこのざまである。
Twitterで何やら自身の壊滅的な芸術方面のセンスのなさを嘆いていたようだが、そんなことしなくてもテレビで一芸を極めたんだから背伸びしなくていい

私は別に今更松本人志にコメディアン以外の何かを期待しているわけではなく、どうぞ死ぬまで偉そうにテレビの既得権益として居座り続けてればいいだろう。
そしてそれを中田敦彦をはじめとする外側の人間たちから「はだかの王様」だと指摘され世間の物笑いになり続ける様を今後も私は見届けるのみだ。
罷り間違っても映画作家なんぞ名乗らないで欲しいし、邦画の連中もこんな人に映画作家としての仕事なんぞ与えず別のところにそのリソースを割いていただきたい。

松本人志なんかいなくても邦画は十分成立する、その客観的事実が本作によって証明されてしまった、まごうことなき駄作オブ駄作である。


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