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いい加減ベジータを父親の鑑みたいに持て囃して擦り倒す風潮をやめろ!

来年から始まる『ドラゴンボールDAIMA』に関してはぶっちゃけどうでもいい、今更悟空たちがチビになったところで大して面白い作品にならないであろうことは百も承知である。
どう頑張ったって私が子供の頃に楽しんだ「ドラゴンボール」は帰ってこない過去の文化だし、今漫画と映画をやっている「超」の中でも歴代最高傑作の「ブロリー」を超える作品など生まれない。
だから『ドラゴンボール』に関してはそろそろ書くのを控えようかと思ったわけだが、今回流石に我慢できなかったことがあったのでこちらで記事として取り上げさせていただこう。
何かというと、今更になって公式側が人造人間編〜魔人ブウ編に至って迷走というか窯変してしまったベジータのキャラクターを美化して擦り倒している風潮についてである。

このインタビューに答えている心理学を専攻していた方だが、この人は原作漫画はもちろんのことアニメ「Z」その他で描かれていたベジータの人となりを知らずに書いたのであろう。
それが感じ取れる一文がこちらだ。

サイヤ人は戦闘民族で幼少期はカプセルで育てられるので、一般的な子どもが形成する親への愛着を持っていなかったと推察されます。

これに関しては推察じゃなく、原作でもはっきりとベジータが「サイヤ人とはどういう種族なのか?」を孫悟空相手にきちんと説明している。

そう、サイヤ人の赤子は直ぐに戦闘力その他を含む戦士の素養を検査し、その数値の大小によって送り込まれる侵略先が異なるだけなのだ。
それこそ悟空と瓜二つのターレスの映画では「子が親を殺す、それがサイヤ人だ!」というセリフがあったし、「たったひとりの最終決戦」ではバーダックが自分の息子を「クズめ」と切り捨てている。
このライターはそもそも多大なる勘違いをしているが、サイヤ人は獰猛な戦闘民族であり、フリーザ軍に従ってはいるものの星の侵略や人殺しをそこまで嫌がっている奴らではない。
そしてまたサイヤ人という種族が大事なわけでもなく、たとえ仲間が死のうが「そいつが所詮そこまでの力しかなかっただけの弱虫だ」と切り捨ててしまう残虐な民族なのだ。

まるで親への愛着を持てなかったことを環境のせいにしているようだが、鳥山が公式として描いた「ブロリー」の過去回想でも別にベジータは父親のことなど何とも思っていなかった。
その父親のせいで起きたブロリーとパラガスが自分に対して吹っかけてきた因縁に関しても「知ったことか」と切り捨てており、別に父親の業はどうでもいいのである。
しかもそれはベジータだけではなくほぼ全てのサイヤ人がそうであり、それこそ孫悟空にしたって父親のバーダックに関する記憶はほとんどないし、育ての親はあくまで地球人の孫悟飯だ。
血も涙もない戦闘民族であるかどうかなんて原作をはじめとする様々な作品を見れば一目瞭然なのに、それを今更「誰も論じてこなかった斬新な考察」みたいに言われても困惑が募る

次にブルマとの結婚だが、「ブルマは「本来感」を与えてくれる存在であったとも考えられます」とあるが、これは原作とアニメで解釈が異なるのであくまで鳥山が描いた原作のみで解釈しよう。
原作漫画でのベジータとブルマの馴れ初めについては詳細が全く描かれておらず、そこで多くの女性ファン(いわゆるベジブルクラスタとかいうやつ)が妄想でたくさんの二次創作を同人やネットに上げていた。

しかし人造人間編の冒頭でブルマは「一緒に住んでいるわけではない」とも語っていたし、ベジータもはっきりと「興味がない」と言い切っており、少なくともこの段階でベジータがブルマとの愛情があったとは明示されていない
その後の未来トランクスとの絆といった辺りに関してもセルに殺されて狼狽した時は確かに何かしら思うところはあったようだが、あれはどちらかといえばベジータの間抜けさを強調する意図で描かれたものであろう。

そしてその後、未来トランクスと現代トランクスの性格の違いなど魔人ブウ編で起こった心境の変化まで描かれているわけだが、何が気持ち悪いといってこれを最終的に「むちゃくちゃ良い話」と編集側がまとめていることだ。
日本人は何かあるとすぐに苦労話や元不良・元極悪人の更生を美談や感動ポルノに仕立てがちだから困るが、ベジータはその人造人間編で18号との戦いの最中にトラックごと無辜の人を殺したり、魔人ブウ編でも会場にいる観客を虐殺したりしている
つまりベジータはたまたまカプセルコーポレーションに住んでいて、連載の延長で元々のキャラからまるっきり変わったというだけで、そうじゃなかったら自らの意思で人を殺すくらいの残虐さは心に残している元極悪人だ。
それをまるで公式側が感動話のようにして語っていることが違和感しかないし、もっといえば「不良が更生したから偉い」などというのはマイナスがゼロになっただけで偉くもなんとも無い

悪の親玉が身内にだけは優しいというのは別段珍しくもなんともない、マフィアのボスだって身内には優しいというケースはごまんとある。
それこそ現在配信中の『未来戦隊タイムレンジャー』のドン・ドルネロが正にそんな悪党であり、脱獄してロンダーズの囚人を使って犯罪を次々と起こしているが、身内には愛情深い
特にギエンに対しては自分が一番愛情も金もかけているからかやたらと面倒を見たがるのだが、それがかえってとんでもない結果に繋がっていく。
どんな極悪人であったとしても愛人をはじめ身内の人間に対して優しくするのは普通のことであり、ベジータの改心自体が大して珍しいわけではない。

じゃあなぜベジータが改心した話が私を除いてそこまで読者の胸を打ったかというと、ブログの方にも書いてるが所詮は「ゲインロス効果」であり、善人が良いことをするより悪人が良いことをする方がギャップとして印象に残るからだ。
少なくとも当事から今まで私は魔人ブウ編のベジータに感動したことは一回もないし、やっぱりあの極悪人時代のベジータの方が今のベジータには無い毒を帯びた攻撃性やキレがあって輝きを放っていた。
そしてもっと違和感があるのはそのベジータの改心との対比なのか、「超」が始まってから悟空が「家庭を省みない父親失格のクズ」みたいな露悪的な面ばかりを強調していて、それもまた大嫌いである。
確かに悟空は話の都合で家を開ける期間は長かったが決してクズではないし、悟飯にとっても悟天にとってもなんだかんだ良い父親であるという描写はきちんとなされていた。

そもそも、人造人間編以降の展開を私は決して高く評価はしていなくて、編集側の都合で無理やり延長させされた結果設定や物語をきちんと練る間も無く描いていたせいで無理な展開が多々ある。
少なくとも私は子供心に魔人ブウ編を「つまらねえからさっさと終われ」としか思っていなかったし、それは今でもそうだ、私にとっての「ドラゴンボール」はあくまでナメック星編までだ
特にここ数年で魔人ブウ編を「ベジータの成長物語」だのと言われると「やめてくれ」と思う、それは連載が終了してリアルタイムで読んでない後の世代の人たちがそう思っているだけではないのか?
ましてや『ドラゴンボール』は『ONE PIECE』以降の長期連載を前提とした大河ドラマ方式の連続活劇ではなく、「ドラゴンボール争奪戦」を軸に短距離走の種目とハードルを上げて繰り返しているだけの作品だ

そうして、後進の世代が見たファンの穿った見方や解釈を取り入れて出来上がってしまったのが「超」の無茶苦茶なキャラ付けと話の展開であり、どんどん原作の良さから乖離してしまっている。
何度でもいうが『ドラゴンボール』という作品は孫悟空VSフリーザという山場の決戦までで1つのピークに達したし、超サイヤ人孫悟空が出た時点で作品としてこれ以上ないまでに完璧なクライマックスを迎えた。
だから人造人間編以降は物語の根幹にあった「ドラゴンボール争奪戦による上昇志向」が失われたまま続いていくインフレバトルであり、あくまでも「壮大な後日談」というスピンオフとして扱っているのだ。
それを懐古厨と言いたいのであれば言えばいい、どうせそういう連中は懐古主義が嫌いなのではなく私のことが嫌いなだけであろうから。

今更こんな程度でキレ散らかしてもしょうがないのだが、今回のような解釈はファン目線の非公式な解釈・批評としてならまだしも、それを「公式」として推していることが問題なのだ
こういうネット民の受け狙いや数字稼ぎのためなら何を言ってもいいとする曲学阿世な連中が居続ける限り、『ドラゴンボール』が本当の意味で正しく評価されるのは遠い道のりであろう。

なんか段々と私の方もいつもの調子が戻ってきたようだ。よし、ここからまた適度にキレ散らかしていくか。

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