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90年代の反集団主義として台頭した「超個人主義」とスーパー戦隊シリーズ

「個の時代」「風の時代」などと声高に叫ばれるようになっているが、私の中では(原体験含めて)90年代ほど個人主義が日本を席巻した時代もなかったと思う。
90年代というのはそれだけ私の中で皮膚感覚として色濃く残っており、未だに心の中で「90年代最高!」と思えてしまうのも、突き詰めると根本はそこにある。
平成初期の10年がどんな年だったかというと悉く既成の概念に逆らい徹底した「個」を突き詰めるというのが間違いなく時代のムーブメントとしてあった。
それは昭和時代の強制的な抑圧がもたらした反動でもあるのだが、あの時代本当に若者たちは「大人なんて当てにならない」という感覚をどこかに抱いていたのである。

冷戦終結・ベルリンの壁崩壊・昭和天皇の崩御・バブル崩壊と80年代末〜90年代初頭にかけて国内外を問わず、戦後昭和が築き上げたものが音を立てて崩壊した。
企業は大量の整理解雇を行い大人たちは路頭に迷い、そんな情けない大人たちの背中を見て若者は失望して「だったら俺たちが世界を変えてやる!」という反逆を起こす。
若者のムーブメントはいつの時代でも起こり得るものだが、少なくとも平成の30年を振り返っても初期の10年ほどその熱量も現象も凄かった時代はない。
典型的なのは渋谷・原宿のコギャル文化が高騰して生じた「ガングロ」に伴う「ファッションヤンキー」の文化であり、「超MM」「チョベリバ」「チョベリグ」という言葉も台頭した。

そのギャル文化は2000年代前半にかけて収束していったが、あれこそ正に既成の概念に対する反抗の精神だったし、今みたいにネットもSNSもないから若者の逃げ場がなかったのである。
今では会社や学校で辛いことがあれば簡単スマホやSNS・YouTubeで息抜きが可能だが、ネットがまだなかった90年代の若者は本当に逃げ場がなく表向きは先生に従うしかなかった
しかし、中学や高校では学校間の闘争があったし、あるいは一見優秀そうな生徒でも裏では卑劣な悪党の顔をして何をしでかすかもわからないという怖さがある。
それこそ以前批評した「3年B組金八先生」の第5シリーズなんて正にそれであり、頭脳犯の兼末健次郎がクラスの不良たちを焚き付けて担任を病院送りにすることから始まった。

あのシリーズの怖いところは教師の威光が子供達にまるで通用しなくなったことであり、先生が生徒からあわや突き上げを食らうなんて今からすれば信じられないだろう。
しかし、98年〜2000年にかけて中学生だった私はあの描写が決して間違いではなく、むしろ現実でもああいう学級崩壊は簡単に起こるような時代であった。
私が中学生の頃にも、ああいう「怖い兄さん姉さん」はいて、中学校近くの商店でたむろ(この言葉ももう死語か)するのは当たり前だったのである。
それに合わせるように芸能界もそうだった、私たちが見ていた90年代のテレビの芸能人は既成の概念に反抗する人たちばかりであった。

例に挙げるならSMAP・TOKIO・V6・ナインティナイン・ダウンタウン・ミスチル・B’z・安室奈美恵・ZARD・SPEED・MAX・GLAYはそうだったと思う。
最後の不良文化というか、既成の概念に対して「そんなの関係ねえ!俺たちがぶっ壊して新しいもの作ってやる!」というタイプの人がほとんどだった。
特にキムタク(木村拓哉)や安室奈美恵はその存在自体がある種の神話性を持ち、昭和のアイドルを根本から覆すメインカルチャーの象徴にまでなる。
それを受けて育った私たちプレッシャー世代はキムタクや安室奈美恵に憧れて、自分たちも群れずに生きようという反抗的な精神を強く持っていた。

そのように見ていくと、『鳥人戦隊ジェットマン』〜『未来戦隊タイムレンジャー』までの10年間もまた「超個人主義の戦隊」といえるだろう。
原体験としてこの時代の戦隊を見たことも含めて、90年代のスーパー戦隊シリーズは「ファイブマン」までが築き上げた既成の概念をぶち壊して新しいものを作ろうという意識が強かった。
周りの大人たちも誰も頼りにならない、そんな中で唯一頼れるのは磨き上げた自分たちの武器と決断力だけであり、それに絶対の正解が与えられることはない。
大人も社会も当てにならない以上、自分たちで答えを作っていくしかないからとにかく強さに縋りつこうというのが常に心のどこかにあったのである。

それこそ「ジェットマン」の結城凱なんて今の若者たちが見たら「クサい」「ダサい」とでも思うかもしれないが、当時としてはあの姿は本当に革新的だった。
己の肉体とエゴだけを武器に、どんなプレッシャーに対しても揺らがずに己の不器用さをさらけ出してもぶつかり、天堂竜との軋轢を経て真に強いヒーローになっていく。
また、天堂竜も肉体的な強さと相反する精神の脆さ・弱さと向き合うことになり、まずは既成の概念やチームのあり方をあの作品は徹底的に解体した。
そうして紡ぎ上げた先に辿り着いた答えが「自己犠牲」でも「平和のため」でもない「自分たちの未来のため」に戦うという答えである。

その答えを更に洗練させたのが小林靖子であり、それこそ「星獣戦隊ギンガマン」では「元々強い者が真の強さを得ていく物語」であったと思う。
それはまさに当時の小林女史がギンガレッド/リョウマのように、脚本家としてのポテンシャルとセンスは持ちながらも、まだ実績がない状態であったことと重なる。
よくキャラクターは作者の分身であるというが、それこそ当時のリョウマの心境は小林靖子女史と密接にリンクしていたのではなかろうか。
OLという安定を捨てて脚本家として一歩大きく踏み出し、長石監督や高寺Pたちに揉まれながら一人前の脚本家として大成する様は戦士として大成するリョウマと似ている。

それでもまだ「ギンガマン」「ゴーゴーファイブ」辺りはどこかで「集団」「チーム」というものを信じ、最終的に「団結」と「絆」ができると信じていた。
そのタブーを破ったのが『未来戦隊タイムレンジャー』であり、あの作品では徹底した「超個人主義」の集大成として「ジェットマン」「カーレンジャー」ですら突破できなかった「カオス」に行き着く。
竜也も未来人4人も徹底して家族の幸福に対して否定的で関心が薄く、頼れるのは自分が積み上げた「個」としての力しかないというところから「明日を変える」ために活動を始める。
そうしていくうちに、それなりに「仲間」「絆」のようなものも中盤で芽生えるが、それが終盤では「団結」に収斂されるのではなく、かえって「個」として浮いてバラバになっていった

命懸けの戦いを続けていくうちに竜也もユウリたちも「歴史が個人の運命を決める」のではなく「個人の運命の重なりが歴史を作る」という真実へと到達する。
しかし、大消滅を食い止めたところで31世紀の未来世界がどうなっているかに関しては全くわからない、もしかしたら世界そのものが崩壊しているかもしれない。
そう、「タイムレンジャー」は歴代の中でも珍しい性悪説に立ち、90年代に台頭した超個人主義を突き詰めた結果としての「もうこの世界そのものがダメである」という絶望に立っていた。
2000年という時代はある意味で「最後の90年代」といえるのだが、「タイムレンジャー」と似た精神性を持つのが同年の鬼束ちひろの「月光」である。

I am GOD'S CHILD [私は神の子供]
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
(こんな場所でどうやって生きろと言うの?)
こんなもののために生まれたんじゃない

のっけから凄まじい歌詞である、「私は神の子として産み落とされた筈なのに、この世界はこんなにも醜く腐っている。何でこんな世界で生きなければならないのか?」と問う。
それは当時とにかく内向的に閉じていて、自分の内面しか信じられるものがなかった私の心に刺さるものがあって、「そうだよな、この世界なんて腐ってるよな」と思った。
「タイムレンジャー」もきっと人類の未来は良くも悪くも「カオス」な方向に行くであろうという、ある種の絶望的な境地に立って作られていたに違いない。
集団主義がもたらす抑圧に対する反動から生じた超個人主義が幅を利かせていたのが90年代のスーパー戦隊シリーズをはじめとするエンタメの特徴であった。

人類の歴史は個人主義と集団主義を繰り返しながら今「カオス」「アナーキズム」の方向に行こうとしているが、その先に何が待ち受けているのか?
そんな時でも揺らがない自分をしっかりと持っていられるかどうか、それがこれから試されていくであろう。

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