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『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)感想〜「90年代戦隊の死」を司り20世紀へ別れを告げた名作〜

『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)のYouTube配信分を全話見終えたので、改めてというわけではないが感想・批評をば。

評価:A(名作)100点満点中85点

もう既に「タイムレンジャー」の評価については以前にブログで書いた感想・批評で固まっているので、今更何か多くを語るということもないので、一般向けの評価はこちらをご覧いただきたい。

今回書く評価はもう少し歴代戦隊シリーズとの比較・検討を踏まえつつ「タイムレンジャーとはどんな位置づけの作品か?」「ラストの結末が何を指し示しているのか?」ということについて語ろう。
以前までの評価では今ひとつ言語化しづらかった「タイムレンジャー」という作品の本質について、今回の配信で角度を変えてみた時に私の中でようやくはっきりと浮かんできた気がするのである。
『鳥人戦隊ジェットマン』『激走戦隊カーレンジャー』同様に歴代のシリーズの中で「異色作」と位置付けられ、大人向けの高尚なドラマという神格化された骨董品のような評価が今までは主流であったと思う。
しかし、そこに囚われていたらいつまでも作品の批評は新しくならないし作品を見る者の感性も変わることはない、真の名作は常に時代に沿った新しい批評が形成され作品自体を常に「現在」として更新されるべきだ。

本作は小林靖子が自身の作家性を確立させたわけであるが、ではその「小林靖子の作家性」なるものがスーパー戦隊シリーズにどのように影響を与えたのか、きちんと論証できた人はまだ誰一人として見ない。
80年代の堀P・曽田博久育ちの井上敏樹が『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)を受け、その衣鉢を継承したといえる小林靖子は初メインの『星獣戦隊ギンガマン』(1998)で平成戦隊の新たな基盤を完成させる。
そして翌年の『救急戦隊ゴーゴーファイブ』(1999)では様々な変化球や挑戦という形での遊びを行い「戦隊とは何か?」という作法を体得し、本作にて更なる未開拓の新境地に挑んだ。
果たして小林靖子は一体どのようにして「激動の90年代」を総括し、90年代が積み上げたものを解体していったのかを本作では論じてみたい。


(1)「未来」と名前がついているのに話の舞台が「過去」あるいは「現在」という矛盾

未来?現在?過去?

まず、大前提として言及しておきたいこととして本作は「未来」という名前がついているにも関わらず、話の舞台が「過去」、あるいは「10世紀前の現在」とでもいうべき矛盾を抱えていることだ。
この辺りはいわゆる「バック・トゥー・ザ・フューチャー」とでもいうべき皮肉めいたタイトルなのかもしれないが、それまでの時空SFがどこか「明るくユーモラス」であるのに対して、本作は徹底して「重苦しくシリアス」である。
それはどこまで行こうと画面全体を支配する「暗さ」のトーンに大きく現れているし、ファンからは「黒靖子」と呼ばれているような歴代で類を見ない陰湿さとでもいうべき雰囲気が脚本にも現れているだろう。
普通「未来」というからには誰しもが「未来世界」での話を想像するであろうし、実際にCase File1の冒頭のイスタブリッシングショットは30世紀の未来世界の風景から始まる。

しかし、30世紀の未来世界がどのようなものであるかは作品全体を通して詳細に描かれることはなく、あくまでも未来人4人がどのような過去を抱え生きてきたかという背景設定として語られるのみだ。
終盤で黒幕として物語に関わることになるリュウヤ隊長ですらも、一見物語全体を俯瞰して見る首謀者のようでいて、実は彼も「歴史の大運に動かされる一人の人間」でしかない。
「未来」というタイトルこそついているものの、本作の主人公はあくまでも「2000年という現在=30世紀から見た大過去」に住んでいる浅見竜也たち現代人なのである。
だから物語の中で「動」の部分を握っている主体はあくまでも浅見竜也であり、未来人4人はあくまでも「お客様」であり、物語の主導権は最後まで持ち得ない。

歴代戦隊の流れで見ると、本作のタイトルが『大戦隊ゴーグルファイブ』(1982)の時の仮題としてあった『未来戦隊ゴーゴーファイブ』という没案の流用であることは周知の事実だ。
しかし、曽田博久がメインライターを担当していた時代に「未来」と名付けるのと、誰も前向きな希望を持てなくて不安になっていた2000年に「未来」と名付けるのでは意味合いが異なる。
お隣の『仮面ライダークウガ』(2000)もそうだが、2000年当時の世相は全体的に閉塞感に満ちており、漠然とした不安が社会全体を覆っていたことは間違いないから、真の意味で前向きで明るい作品になりようがない。
かくして、「クウガ」といい「タイムレンジャー」といい、これらの作品を原体験で見てきた人たちにとってはこの矛盾したタイトルと実際の作風のギャップに心が宙に浮いたまま鑑賞することを余儀なくされる。

未来人4人が既に未来世界を知っている中で身動きが取れなくなっている中で、唯一未来世界を最後まで知ることがない竜也だけが「明日を変える」という無根拠な自信を口にして物語は動き出す
しかし、その竜也でさえも決して根っから溌剌とした明るさを持ち得ているわけではなく、父親である浅見会長との確執や家名故にいじめを受けた過去などの暗い要素が露呈していく
中盤以降になると彼に対して歪んだ真っ直ぐさを抱えた滝沢直人が登場し、終盤の歴史修正では遂にタイムレッドの資格すら一度剥奪され、何度も己の無力さを突きつけられる試練が待ち受けている。
犯罪者を逮捕するという表向きの勧善懲悪のフォーマットがとりあえずのお題目として掲げられた本作において、まずは題名の時点で視聴者に敢えて違和感を与えているのだ

(2)至る所で崩壊してしまう「共同体」という神話

共同体はいずれ滅びる

(1)の大前提を踏まえ、小林靖子は劇中の世界観・登場人物・筋運びの至る所において「共同体」という、スーパー戦隊シリーズが根底の部分に持ち得ていた神話を崩壊させていく
以前も述べたが、小林靖子という脚本士が東映特撮においてメキメキと頭角を現しながら未だに突然変異のような異色ぶりで見る者に衝撃を与えるのは正にこの点においてである。
『星獣戦隊ギンガマン』(1998)という傑作において「理想のヒーロー」を作り上げシリーズの土台そのものを再生・復興させた女史は本作においてそれすらも解体しにかかった。
前作「ゴーゴーファイブ」まででどこかにあった「組織・共同体」というところに全く寄りかかれず、足場が不安定な中で動かなければならないのが本作独自の特徴である。

現にタイムレンジャーの5人は一応のところトゥモローリサーチという何でも屋の零細の会社を立ち上げ、時空警察としての顔とは別に個人事業主としての顔を持つ。
しかし、ではそれが共同体として完璧に機能しているかといえばそうでもなく、何度も家賃を滞納したり携帯料金未払いだったりといった経営難に見舞われる
また、任務においても同じことが言えて、特にタイムピンク・ユウリがそうだがドルネロへの強い復讐心が全てに優先する彼女は物語終盤までその復讐心を引きずっていた。
ドモンにしたって中々方向性が定まらないし、アヤセに至っては最初からオシリス症候群という不治の病を抱えており、その悩みが最後まで解消されることはない

竜也との因縁の間柄であるタイムファイヤー・滝沢直人がシティガーディアンズ隊長として物語終盤まで絡むと、よりこの「共同体という神話の崩壊」はより加速していく。
異例の速さで直人はスピード出世を果たしていくわけだが、それが最終的に失脚してしまい崩壊することは浅見会長によって既に見抜かれていた。
そう、組織の権力争いという泥沼に足を踏み入れたが最後、そこから逃げることはできない上に勝者になれる者はあらかじめ決められている。
それは敵側のロンダーズファミリーですら例外ではなく、それなりに絆があったドルネロとギエンですらも最後はそれが仇となって裏切りによる死を迎えてしまう

本作はその意味で「ジェットマン」かそれ以上に善悪を超えた権謀術数が物語の中で展開され、しかも「ギンガマン」の時点ではギリギリ持ち得ていた「仲間の絆」ですらも掻き消えていく
表向きは歴史という大きな時間の流れに翻弄される若者たちの青春を描きながらも、その「個人の欲望」が決して物語の中で肯定されることはなく、悉く挫折していくのだ。
その意味で本作は「戦いの末に喜びよりも苦しさが残る」という点において『超獣戦隊ライブマン』(1988)以上の苦さを最後まで残したままだといえるかもしれない。
だが「ライブマン」では決して「ヒーローの敗北」は描かれても「共同体の神話」は否定されなかったのだが、本作はそれすらも終盤で否定されてしまうことになる。

(3)「ジェットマン」以上のイレギュラーをやってしまった最終決戦

トドメはあくまでタイムレッド

そんな本作が辿った最終決戦はよくよく見返してみると『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)の本歌取り・オマージュであることに誰もが気付くであろう。
「ジェットマン」最終話のAパートで描かれるラゲムとの最終決戦において、実は「ファイブマン」まででは描かれなかった掟破りが行われている。
それはジェットガルーダとジェットイカロスへの分離であり、あの時はレッドホーク・天堂竜と他の仲間たち5人に別れることになった。
レッドホークは唯一の正規戦士として半分自己犠牲のような形で、ブラックコンドル・結城凱に命を預けて自分たちの未来のためにという心中のようなことを行っている。

分離したジェットマンの最終決戦

スーパー戦隊シリーズが「団結」と「星を守る」ことにあるとするならば、合体ロボで一緒に操縦するのはその「団結」の象徴のはずだが、「ジェットマン」はそのタブーに切り込んだ
しかもレッドホークも他の戦士たちも最後は変身してではなく生身で乗りこなしていたが、本作はその「ジェットマン」以上のイレギュラーな最終決戦を行っている。
タイムレッドと残りの4人が別々のコックピットであるというのをまず大枠として「現代人と未来人」という、いずれ別れるべき存在として描かれてきたことがここで更なるタブーを可能とした。
そしてその上で大消滅を食い止めたのが5人全員揃ってではなくタイムレッドが用いたマックスバーニングであるという「個人の力」であるのもまた他に例がなかったのではなかろうか。

小林靖子はそもそも初メインの「ギンガマン」からしてそうであったが、「仲間の絆」はきちんと描きつつも、最終回のトドメにおいては必ず「個人の力」を重要視している
例えば「ギンガマン」最終章でラスボスである船長ゼイハブに決定打となるトドメを刺したのはリョウマとヒュウガの炎の兄弟による「ダブル炎のたてがみ」であった。
現在配信中の「シンケンジャー」はネタバレになるので置いといて、「ゴーバスターズ」も「トッキュウジャー」もラスボスにトドメを刺すのは主人公であるレッドかそれに相当する格を持った者である。
その意味で本作は「仲間の絆」を大事に描きながらも、あくまで物語の主導権がタイムレッド・竜也にあるので彼が大消滅を食い止め、未来人4人はそのアシストにしかなっていない。

レッドを欠いたタイムロボのコックピット

この点に関して「たった一人の未成熟な若者に大消滅という歴史の運命を背負わせるのはどうなのか?」という批判的・懐疑的な視点を投げかける向きもないわけではないだろう。
だが、本作はそもそも「共同体」がどんどん崩壊していきスーパー戦隊シリーズそのものが大枠としてあったものを1年がかりで解体していくという「ジェットマン」以上の脱構築=破が1つの目論見である。
その目論見を果たすことを掲げた以上、あの最終決戦はあの形以外にはなり得なかったし、それと引き換えに未来世界のことがどうなろうがちっとも大事なことではない
最初から最後まで竜也たちの目的はあくまでも「明日を変えること」であり、その善し悪しや結果に関して描くことまでをも含意はしていないからである。

(4)最終回の結末は本当に「明日を変えた」といえるのか?

浅見親子が唯一同じ空間に映ったショット

さて、ここまでは何とか語り尽くせたのだが、その上で最終回のエンディングを見て改めてどうしても個人的に解せない大きな違和感がある。
それは何かというと、浅見竜也たちは本当に「明日を変えた」といえるのか?ということであり、それが見て取れるのが最終回の表向き爽やかなエンディングである。
クリスマスの歴史修正命令の苦境を経て、竜也と浅見会長はお互いの人生に一定の「理解」は示したが、かといって直接的な「和解」はどこにも描かれていない
ここも普通に見ている分には気にならないのであろうが、「画面の運動」として見た場合明らかに違和感しかなく、現にこのショットとセリフが示している。

穏やかな笑みを浮かべる浅見会長

竜也は「いつか浅見の名を受け止められるようになる」といい、そんな竜也を車で追い越しながら穏やかな笑みを見せる会長は確かにそれ自体で見ると和解したようではある。
しかし、本当の意味で和解したのであれば一緒に食事するシーンをもっと決定的な感じとして演出していいであろうに、本作は決して浅見親子が「和解した」などとは描かれていない
(2)で述べたように本作において「組織」「共同体」「仲間」といったワードや概念、つまり「人同士の繋がり」は頑なに拒否されており、それは親子においても例外ではないのである。
「ギンガマン」の青山親子しかり炎の兄弟しかり、そして「シンケンジャー」の侍の親子しかり、小林靖子脚本において「家族の絆」が諸手あげて肯定された試しは一度もない

本作の最終回が表向きはハッピーエンドの大団円であるように見せていながら、どこかカタルシスがないように見えるのはシリーズの歴史が積み上げてきたものが全て雲散霧消してしまったからであろう。
その意味において、本作は「90年代戦隊の死」という「脱構築=破」を担っただけではなく、ある意味ではスーパー戦隊がシリーズとしてやれる限界ギリギリまで挑んだことには間違いない。
しかしそれは同時に「スーパー戦隊シリーズはもうこれ以上の領域の物語を紡ぐことはできない」ことをも露呈させた瞬間であり、実際次作「ガオレンジャー」以降は空虚な明るさのみが画面を支配するようになる
そしてまた、私が本作をA(名作)からS(傑作)へ評価を上げられない理由もここにあって、本作が見せたものは事によると「ヒーローもの」でなくても成立してしまう

竜也たちが果たして本当に明日を変えるということを果たしたかどうかに関して、小林靖子をはじめ本作の作り手が明確な回答を出すことはこれから先もないであろう。
いわゆる勝手な後日談を出した『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011)の40話は海賊版だから同人のスピンオフとして考慮しないものとして、とにかく全体的に「面白さ」はあっても「楽しさ」がない
しかし、その「楽しさ」がないことと引き換えにスーパー戦隊シリーズが20世紀へ本作をもって別れを告げたことだけは間違いないと、20年越しに見直した私にははっきりと断言できる。
スーパー戦隊シリーズが本質的には本作で1つのゴールに達したことが緩やかに、しかしシビアに示されていることをきちんと受け止めねばなるまい。

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